参考:「孫文による中華民国の成立、軍閥による混乱、統一に至るまでの経緯」
辛亥革命・清朝崩壊から混乱を経て、政権が統一されるまでの経緯は変化が複雑であり、先ずは大筋の流れを記した後、その概要を追記する。
1911年 辛亥革命始まる
1912年 1月南京にて「中華民国」政府樹立
(中華民国南京政府 孫文が臨時大総統に就任)
3月北京の袁世凱に臨時大総統を譲る
(中華民国北京政府 袁世凱が臨時大総統に就任)
1913年 9月孫文らによる袁世凱政権打倒の軍事蜂起(第二革命)を袁世凱は鎮圧し、10月大総統に
就任
(中華民国北京政府 袁世凱が大総統に就任)
1916年 袁世凱死去
<袁世凱死去以降中国各地に軍閥が割拠。中国北部の各軍閥(北洋軍閥)が中華民国・北京政府の支配をめぐり抗争、政権の入れ替わりが続く。日本を含む列強がそれぞれ軍閥を支援し抗争が続いた>
1919年 孫文が中華革命党を改組して中国国民党を上海にて結成
1924年 北洋軍閥奉天派の張作霖が中華民国北京政府(北洋政府)の実権を握る
1925年 孫文死去
中国国民党は広東にて国民政府を樹立。主席汪兆銘
(中国国民党広東国民政府)
<1925年広東国民政府成立から北伐完了の1928年までは中華民国北京政府(軍閥~張作霖による北洋政府)と中国国民党広東-武漢-南京国民政府の2つの政権が併存>
1926年 広東国民政府は蔣介石を国民革命軍総司令として7月に北伐を開始
1927年 4月上海クーデターにより蔣介石は南京に独自の南京国民政府を樹立し主席となった。
(中国国民党南京国民政府)
<広東から武漢へ移った国民政府は蔣介石の南京国民政府に吸収された>
1928年 南京国民政府により北伐再開、6月全国統一なる
(中華民国国民政府(南京-重慶))
<蔣介石は1928年4月に北伐を再開。6月、北京へ入城し南京国民政府による全国統一が完成した。以後、中国は南京を首都とする中華民国国民政府(南京-重慶)が1949年まで中国を統治することとなる。主席は蔣介石。同年米・英・仏が中華民国として南京国民政府を承認した>
以下、上記経過の概要を記す。
1.辛亥革命・清朝崩壊から「中華民国(臨時)政府」の時代(1911年~1913年)
1911年辛亥革命が勃発し、13省があいついで独立を宣言するという事態のなか、清朝政府は北洋軍閥の袁世凱を総理大臣に起用した。しかし袁世凱は権力を奪取する機会ととらえ、清朝と革命派の取引を開始した。長江流域に利権を持つイギリスも清朝を見限り袁世凱を支援した。
1912年1月1日、孫文が南京で「中華民国」政府の建国を宣言し臨時大総統となった。しかし、支持基盤は弱く、外国の支援もなかったため、孫文は袁世凱の要求を入れ、清朝皇帝の退位を条件として臨時大総統の地位を袁世凱に譲ることを認めた。
2月、清朝最後の第12代皇帝宣統帝が退位すると、孫文は辞任し、後任に袁世凱が3月、北京で臨時大総統に就任した。彼の率いる北洋軍閥は事実上私兵としてその独裁を支えた。
袁世凱の野心を警戒していた孫文は、北京から南京に来て首都とすることや臨時約法(臨時憲法)を遵守することを約束させていたが、袁世凱はそれらを守らず、北京に居座って実質的な首都としてしまった。
臨時約法の規定に従い、1912年12月から翌1月にかけて中国史上初めての国会選挙が実施された。政党乱立の中で、「国民党」は宋教仁らが中心になり結成した議会政治・共和政治・民主主義を掲げる政党であった(理事長は孫文、理事長代理は宋教仁で、宋が実権を握った)。選挙の結果は国民党が第一党の地位を占めた。(後に1919年、孫文により結成され、今日台湾に至る「中国国民党」とは別の政党である)それに袁世凱は危機感を抱き、翌13年3月宋教仁を暗殺した。袁世凱の独裁化に対抗すべく、国民党の急進派も参加して第二革命(1913年7月~9月)を起こしたが失敗し、参加者の多くは日本などへ亡命するか、中国国内の南方へ逃亡した。孫文は日本に亡命した。
2.「中華民国北京政府」の時代(1913年~1916年)
袁世凱は1913年10月に正式に中華民国大総統に就任した。さらに翌年には臨時約法を廃止し、新たな憲法として約法を制定、独裁権力を強化した。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると日本は翌1915年に袁世凱政府に対し二十一か条の要求を提示した。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府はそれを受諾。これに対して非難が殺到し、袁の権力基盤である北洋軍閥の諸将からも反発を受けた。この混乱を袁世凱は自分が皇帝になるという帝政宣言を発して乗り切ろうとした。1915年12月自ら中華帝国大皇帝を自称した(正式な即位式は行わなかった)が、支持を得られず帝政を翌年3月取り消し、83日間皇帝として君臨したが、6月病死した。
3.「中華民国北京(軍閥)政府」と「中国国民党国民政府」との併存時代(1916年~1928年)
袁世凱の死後、「中華民国」には中国全土を統治する統一政府が存在しない空白状態が生まれ、軍閥が群雄割拠し、中華民国北京政府の支配をめぐり抗争する軍閥時代となった。同時に日本や列強諸国による中国の半植民地化も進行した。その後、1924年ごろには張作霖が中華民国北京政府の実権を握った。
対華21か条要求の廃棄を挙国的に要求する五四運動(1919年)が起きた。
上海において孫文が1919年に「中国国民党」を創建し総理に就任。
孫文は1925年3月、死去した。
1925年5月30日には上海でストライキ中の中国労働者が、イギリス警察に殺害されるという事件をきっかけに五・三〇運動が始まり、ナショナリズムが高揚していった。
〇 「広東国民政府」
1925年7月、「中国国民党」は広東にて国民政府 (広東国民政府) を樹立した。主席は汪兆銘。8月、国民革命軍が編成された。
以降、中華民国北京政府(張作霖)と中国国民党広東-武漢-南京の国民政府の2つの政権が、国民政府により北伐が完了する1928年まで併存することになった。
1926年7月の臨時党大会において、蒋介石は中国国民党の最高職である党中央執行委員会常務委員会主席に就任した。党と軍の最高職を得た蒋介石は、孫文の後継者としての地位を確実なものとした。蔣介石は北伐宣言を発して、広州を起点に国民革命軍は北伐を開始、その過程で軍閥なども糾合していくことによって中国の統一が進められた。
〇 「武漢国民政府」
北伐が進んで長江流域を制圧したので、広東の国民政府は1927年2月、長江中流の武漢に移り武漢国民政府となった。
上海では北伐軍が到着する前の同年3月共産党の周恩来などに指導された労働者が武装蜂起し、軍閥軍を撃退し臨時政府を樹立していた。当時は1924年に成立した第1次国共合作により、中国国民党と共産党の協力関係が孫文の主導により実現し、軍閥政府との戦いを進めていた。
〇 「南京国民政府」
蔣介石は、コミンテルン(ソ連による国際共産主義運動)の介入や共産党の力を恐れ、上海の共産党の臨時政府弾圧を決意し、1927年4月、国民革命軍は市内に突入、共産党は上海から排除され第1次国共合作は破綻した(上海クーデター)。
蔣介石は南京に武漢政府とは別に独自の南京国民政府を同年4月に樹立し主席となった。武漢国民政府は8月には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなった。
1928年4月に北伐が再開された。
国民革命軍は中華民国北京政府や各地の軍閥と戦い、1928年6月に北京に無血入城し、北伐を完了した。同年10月蒋介石により南京を首都とする中華民国国民政府(主席蒋介石)が正式に成立した。この時点から中華民国は各地の軍閥や共産党勢力といった反抗勢力を抱えつつも、これまで併存していた中華民国北京(軍閥)政府と中国国民党の南京国民政府が、中華民国国民政府(南京)1つに統一された。
北伐を完成させたことによって、1928年7月にアメリカが蔣介石の南京国民党政府(中華民国国民政府)の関税自主権の回復を承認し、次いでドイツ・フランス・イギリスなどヨーロッパの11ヵ国が国民政府との間で関税自主権を認める条約に調印した。日本は済南事件の解決が長引いたため、ようやく1930年5月に日華関税協定を締結し、中国の関税自主権を認めた。なお、この時点では各国も日本も、治外法権撤廃については承認していない。
4.「中華民国国民政府(南京-重慶)」の時代 1928年~1949年
統一後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。その一方で、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」(主席毛沢東)を樹立した。共産党に対して蒋は大規模な掃共戦を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込み、共産軍は西安、延安まで撤退し続けた。
また、日本の関東軍が1931年の満州事変を契機として満州を掌握し、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝を執政に推戴する満州国を建国した。全国的に抗日を要求する世論や、日中提携を模索するものへのテロが引き起こされていた。しかし、蒋介石は反共主義の立場から、抗日政策より共産党討伐を優先させていた。
そのような中、父である張作霖を関東軍に殺された満州出身の軍閥・張学良は、共産党殲滅のための最後の作戦を指導するために1936年12月、西安を訪れていた蒋介石を拉致監禁し、国民党と共産党の再合作を要求した(西安事件)。蒋は最終的にこれを受諾し、抗日民族統一戦線を結成する端緒となり、1937年の日中戦争の開始と共に第2次国共合作が成立する。これにより中華ソビエト共和国は中華民国の指揮下に入り解体した。また、共産党軍は第八路軍として国民政府軍に組み込まれた。
しかし、日中戦争では兵力の差があるにもかかわらず国民政府軍は各地で敗北を重ね、同年12月には首都南京を日本軍に制圧された。蒋介石は首都を重慶へ移転させて(重慶国民政府)徹底抗戦の意思を示し、アメリカやイギリスなどからの支援を背景に抗日戦争を続けた。
一方で、日本は汪兆銘と1940年3月、傀儡政権である新国民政府を南京に樹立した。清朝末、汪兆銘は日本の法政大学留学中に中国同盟会に加入。孫文の側近であり、その死後は中国国民党左派の中心人物として蒋介石と対抗。抗日戦争中、重慶を脱出して日本の支援により、南京に中華民国南京政府を設立し行政院長(首相)に就任。民衆の支持を得られないまま、名古屋で病死した。
その後は、日中戦争の際限のない拡大、そして太平洋戦争へと至る。
孫文(右)と蒋介石
以 上