3、激動期1 攘夷から尊王攘夷へ  

 

  ○「攘夷」から「尊王攘夷」へ

江戸時代後期には徳川光圀らの水戸学による尊王敬幕の歴史観を基にした尊王攘夷思想の影響により、朝廷の権威は急速に上昇していた。

 

    幕府は本格的開国となる日米修好通商条約では締結前に、老中首座堀田正睦が反対勢力を抑えるため孝明天皇の勅許を得ようとした。しかし1858年(安政5年)3月、攘夷論者の孝明天皇(27歳)はそれを拒否した。天皇が「攘夷」の方針を明確にしたことで、天皇の意志を尊重する「尊王」と「攘夷」の思想が1つとなり、「尊王攘夷」として志士たちを勢いづかせた。これ以降、朝廷は政治的意見を述べ、幕府の政策への介入が始まった。

 

○日米修好通商条約調印をめぐる争い

13代将軍家定(薩摩藩主島津斉彬により篤姫が家定の継室(正室)として送りこまれた)は病弱で子供がなく、開国の是非と継嗣問題で幕府内を二分する争いになっていた。家定はこの難局を乗り切るために大老職を設置し、井伊直弼を任命、井伊に強権を許すことになった。井伊は家茂を継嗣とし、1858年(安政5年)6月に反対派を黙殺して日米修好通商条約(不平等条約)を締結した。もちろん事前の勅許を得てはいない。その後、蘭、露、英、仏とも同様の条約を調印した。これで日本は完全な「開国」となった。

 

条約締結直後の18588月、家定は没した。家茂は12月に14代将軍となるがまだ13歳であった。井伊は水戸派の親藩や大藩の大名、攘夷浪士らを大量処罰したため (安政の大獄 )1860(安政7) 3月、桜田門外で水戸浪士団に斬殺された(桜田門外の )

 

 ○海外知識吸収のための欧米派遣は1860年から始まった

   英仏は中国において、アロー戦争(第二次アヘン戦争1856~1860年)に大勝した。次は英仏連合艦隊が日本へ来襲するとの恐怖は日本中に共有された。日本が実際に欧米や中国の現地へ行って、情報収集を始めるのは、1860年の幕府による遣米使節団派遣(日米修好通商条約批准書交換のため77名が約9カ月間の世界一周)からである。鎖国令発布以降日本人が正規に国外に渡航した最初の例である。

 

1862年には幕府による上海使節団第一次派遣がなされた。太平天国の乱末期にあたる6月、交易が目的ではあったが、清朝の状況収集も任務であった。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら51名が参加した。また、同年、遣欧使節団が派遣された。幕府が欧州に派遣した最初の使節団で、総勢38名、約1年間在欧した。

 

なお、1863年には長州藩は独自に伊藤博文、井上馨ら5名を英国へ留学させ、1865年に薩摩藩は3名の視察員(五代友厚他)と15名の留学生を英国へ送っている。いずれも密航である。

 

  ○公武合体派による皇女和宮の降嫁

    幕府において朝廷と結ぶことで権威の回復を図ろうとする公武合体論が浮上した。老中安藤信正らは家茂の正室に孝明天皇の妹、和宮親子内親王降嫁を願い、皇女和宮の降嫁は186010月に勅許され、62年(文久2年)211日に将軍家茂との婚儀が行われた。

 

  ○薩摩藩(公武合体派)影響下の朝廷の動き

    幕府の権威低下にともない、これまで幕政から遠ざけられていた雄藩の政治力が相対的に高まった。島津久光の意志は朝廷・幕府・雄藩が政治的提携をする公武合体であった。久光は公武合体実現のためには、朝廷と幕府ともに改革の要ありとして、1862年(文久2年)4月、藩兵約1000名を率いて上京した。朝廷に対する久光の働きかけにより、先ずは幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、久光は勅使随従を命じられ江戸へ向かった。これをうけ、幕府は18627月、安政の大獄以来失脚していた松平春嶽(前越前藩主)が政事総裁職に、一橋慶喜(一橋徳川家当主。後の15代将軍)が将軍後見職として復帰し 、この2人を中心に幕政の改革が進められた。また、孝明天皇の意志である攘夷実行を直接家茂(和宮降嫁により孝明天皇は義兄)に求めるため上洛を要請し、家茂は18633月、上洛した。徳川家光以来229年ぶりの上洛・参内であった。朝廷は家光の時とは違い、露骨なほど家茂を「臣下」として待遇した。賀茂社行幸の時も、将軍家茂は馬上で、諸大名とともに、鳳輦の中の天皇に従っていた。これは天皇と将軍、朝廷と幕府の位置関係の逆転を天下に示した。天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。前年、天皇は上京した島津久光に京都の守衛を命じ、10月には薩長両藩など14藩の藩主に、日米修好通商条約の破約攘夷を実現するよう命じていた。天皇は幕府の頭越しに、諸侯に直接命令を下していたのである。

  

○過激派長州らによる京都騒乱

長州藩が尊王攘夷派の盟主となり 、過激な尊王攘夷派による公武合体派や開国派を狙ったテロが容赦なく続き、京都の治安は極度に悪化した。京都には幕府の京都所司代が設置されていたが、幕府は1862 (文久2) 年閏8月、新しく京都守護職を設置して親藩の会津藩主松平容保をこれに任命し、京都所司代、大坂城代をその指揮下におく強大な権限を与えて鎮圧にあたらせた。

 

動乱は京都だけではなく、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)ら12名は、攘夷の実績を示して大いに長州の名を上げようと12月、江戸・品川御殿山で建設中の英国公使館を焼打ちにした。 

 

○攘夷決行の勅令  

孝明天皇は上洛中の家茂に攘夷を命じた。1863420日(文久3年)、幕府(将軍家茂と後見職一橋慶喜)は「壌夷期限」を510日と朝廷に奉答した。これにより朝廷は21日に在京諸藩に510日をもって「醜夷掃壌」することを命じた。幕府は23日に諸藩にたいして「自国海岸防御」を厳重にし「襲来候節ハ掃壌」すべしと達した。外国が「襲来」した節に壌夷を行えと、条件をつけたところに壌夷にたいする幕府の姿勢が表れており、諸藩はその意味を理解した。しかし強硬派の長州藩のみがその日、510日に攘夷を決行した。下関海峡を通過する米、仏、蘭船を砲撃したが、6月には米・仏の報復攻撃を受け列強に完敗した。

 

同年(1863年)7月、前年の生麦事件報復のための2日間の薩英戦争が起こる。薩摩は敗北し攘夷の無謀さを理解し、いずれ攘夷は必要であるが、当面は開国論に藩論を転換し、混乱収拾のために公武合体を推進する。

 

一方、長州は薩摩とは逆に、列強に対して攘夷を行なうには、天皇の名のもとに一丸となって行うしかないとして、攘夷親政の動きを具体化しようとした。

 

○文久三年八月十八日(1863年)の政変

政変により攘夷親政派が敗北し公武合体派が勝利した。

 

水戸学では「徳川家に将軍職を授けるのは天皇である」として、天皇を尊崇した。その影響により尊王攘夷派の間には、天皇親政が日本本来の政治制度であるという観念が高まり、王政復古が主張され始めた。それが討幕派の拡大へと続いていく。  

 

孝明天皇は破約攘夷を望んでいたが、列強との武力対決となるような強硬な攘夷論には消極的になっていた。しかし文久33月以降、三條実美などの攘夷強行派の廷臣と、彼らを煽る長州藩士らにより、天皇の意志を無視して朝議が動かされるようになり、偽勅許事件が次々に起こった。

 

長州や過激公家達は、先ずは孝明天皇の大和行幸を行ない、神武天皇陵などに詣でて、攘夷を宣言し、天皇親政による討幕、攘夷を強行しようとした。この行幸に天皇自身は反対であった。

 

文久3 (1863) 8 18日を期して大和行幸が挙行されることとなった。これに危機感を抱いた薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内公武合体派公卿と結んで過激な尊王攘夷派排撃の密議がなされ、813日、薩会同盟が結ばれた。孝明天皇も大和行幸を阻止しようと自ら決断して政変の決行を命じた。

 

薩摩藩他は8 18日、兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放した (文久三年八月十八日の政変・七卿落 )。この政変で兵を動員した藩は薩摩藩のほか、会津、備前、阿波、因州、米沢、淀など30藩近くに上った。京都はしばらくの間は公武合体派の握るところとなった。

 

○雄藩大名の朝議参預就任と幕政への参加

当時、朝廷は人材に欠けていた。 そこで朝廷は雄藩大名に期待し、薩摩藩主の父島津久光、越前藩前藩主松平春嶽、宇和島藩前藩主伊達宗城、土佐藩前藩主山内容堂、一橋徳川家当主徳川慶喜に京都守護職松平容保を加えて、朝議への参預を命じ(参預会議)、公武合体政権の確立を図った。1864年(文久4年)正月から参預会議が朝廷で開かれ、2月には、2度目の上洛中であった家茂の老中会議への参加も命じられた。しかし、参与会議において徳川慶喜と島津久光との対立が激化し、ほとんど何の実績もあげられぬまま、3月には瓦解した。 徳川慶喜の意図は、政治の主導権を握り、雄藩の影響力をこれ以上増大させないことにあった。これに対して薩摩を中心に倒幕への方向が拡大していく。

 

一方で朝廷は、参預候が帰国してしまった後を、京に残る慶喜に依存せざるを得なかった。1864年(元治元年)420日には幕府に一切委任するという庶政委任の勅が出され、慶喜は将軍の名代として京都での政治の主導権を握った。これは天皇・朝廷が求めた体制ではあった。

 

〇長州、禁門の変を起こすが敗北

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩では、その後急進派が支配し、八月十八の政変は藩主に罪がないことや追放された尊王攘夷派の公家を復帰させるよう主張したが、朝廷は拒否した。長州藩は蹶起し、京都に向けて進軍した。

 

これをうけ、慶喜は将軍の名代として動き、1864年(元治元年)719日、配下の朝廷警備に当たる京都守護職松平容保の率いる会津・薩摩連合軍は長州勢を蛤御門の激戦で破った。これにより慶喜は天皇の信頼を深めた。 

 

禁門の変を起こした長州藩に対する、慶喜主導の第一次長州征伐は、1864年(元治元年)8月に出兵した。この時長州藩は列強・四国連合艦隊の攻撃(下関戦争8月)で打撃を受けており、恭順派が藩論を支配して、12月に幕府に謝罪したため征伐軍は撤兵した。

 

長州藩は下関戦争後、四国連合艦隊と講和のための講和使節に高杉晋作を当てた。連合軍は300万ドルの賠償金を要求したが、高杉は、今回の外国船への攻撃は幕府の命令に従ったものとして拒否。連合軍は幕府に要求し、幕府はこれを受け入れた。幕府は6回の分割払いをしていたが瓦解してしまい、明治政府が引継ぎ、残り3回分の150万ドルを支払っている。300万ドルとは当時の幕府年間総歳出額のおよそ1/4にもあたる極めて莫大な金額であった。

 

その後、長州藩内は高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、山縣狂介(有朋)らの尊王倒幕派によって再び掌握され,幕府との和平交渉も打ち切られた。この時点で高杉は、今は攘夷の時ではない、先ずは開国をして国力強化が優先だと方針を転換していた。薩摩藩と同様の考えに至っていたのである。 

 

幕府は1865年(慶応1)4月、第2次征長を布告したが、開戦は翌年となった。

 

 

 米艦による下関への報復攻撃       薩英戦争                                                  下関戦争