参考:「二・二六事件」(1936年(S11)年2月26日)
二・二六事件は、当時侍従武官長であった本庄繁陸軍大将による「本庄日記」に天皇と側近の4日間が詳細に記されている。以下は本庄日記より。
2月26日
午前6時頃本庄急ぎ参内、「陛下には非常に御深憂の御様子にて、早く事件を終熄せしめ、禍を転じて福と為せ、との御言葉を賜り」とある。午前9時頃川島陸相に対し「陛下は速に事件を鎮定すべく御沙汰あらせらる」。陸軍軍人による行為であるため、侍従武官長の本庄に対し「陛下には、2、30分毎に御召あり、事変の成行きを御下問あり、且つ、鎮圧方督促あらせらる」。この段階では「事件」から「事変」と言う言葉を使っている。天皇は鎮圧を督促している。
2月27日
午前2時50分、戒厳令が公布され、香椎浩平中将戒厳令司令官は天皇から「武装解除、止むを得ざれは武力を行使すべき勅命を拝す」とある。本庄が青年将校達のその精神に於いて同情的な進言をしたことにたいし、天皇は本庄へ「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありやと仰せられ」、「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と怒りをあらわにしている。
またこの日、「陛下には、陸軍当路の行動部隊に対する鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮あらせられ、朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らんと仰せられ」、この日も、「数十分毎に召され行動部隊鎮定に付御督促あらせらる」とある。天皇は烈火のごとく怒り続けている。
2月28日
午後1時、川島陸相より本庄へ、将校たちを自刃させて罪を謝させるには陛下からの「勅使を賜はり死出の光栄を与へられたし、此以外解決の手段なし」との要請があった。本庄が陛下に伝奏したところ「陛下には、非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使杯、以ての外なり」と仰せられ、「直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙る」。天皇の意志は固く明解である。青年将校達は「大御心」にかなうと信じて反乱を起こしたが、この天皇の気持は青年将校達にとって最大の誤算であった。
2月29日
「山王ホテルの叛乱部隊」は安藤大尉が帰隊を命じ、「午後2時過、杉山参謀次長、同2時半香椎戒厳司令官参内拝謁、事変一段落の旨を奏上」した。この日に本庄は「叛乱部隊」と記している。天皇は前日の町田代理蔵相(殺害された高橋是清蔵相の後任)の奏上により、「事変の経済界に与ふる影響」を心配されていたが、「事変が比較的早く片付き」「差したる影響を与へず、大丈夫なりと」漏らされ、「御案慮の体に拝したり。」とある。
以上からも、昭和天皇は軍の暴走とそれを容認する陸軍の姿勢を排除すべきとする、明確な行動を執っていたことが記録されている。
以 上
右端の写真は二・二六事件慰霊像(渋谷区宇田川町)