参考:「ワシントン会議 米国は日本の中国及び太平洋地域への拡大を抑える
ための国際的合意作りを目指した」
日本はワシントン会議で山東半島を返還させられた。それは「再度の臥薪嘗胆」ではなかったのか ! なぜそれを呑まなければならなかったのか?
第1次世界大戦後(1919年パリ講和会議・ヴエルサイユ講和条約)、日本は五大国になったが米英には国力で圧倒的な差があった。1919年当時の銑鉄生産量は米国3151万3000㌧、英国816万4000㌧、仏334万4000㌧、日本はなんと59万6000㌧であった。米国は英国を凌ぐ大国となっていた。
過去において、日本は日清戦争後の三国干渉で、獲得していた遼東半島を返還させられた。国も国民も臥薪嘗胆であった。しかしその後の日露戦争で遼東半島を取戻した。第1次大戦時にはドイツから山東半島を手に入れ、ヴエルサイユ条約でそれを認められた。一方で遅れて来た米国はこれらの日本の中国での権益の増大に対抗する機会を狙っていた。そして英国から世界の覇権を奪おうとしていた。
第1次世界大戦後の厭戦気分の中にあって軍縮問題は、当然国際連盟でもテーマとなったが、アメリカが国際連盟に不参加であったため成果を上げることが出来なかった。それにかわって、アメリカを含む大国による国際会議で協議されることとなった。それが1921年11月~ 1922年2月のワシントン会議である。アメリカのウォレン・ハーディング大統領が提唱し、国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカが主催した初の国際会議であり、海軍軍縮と太平洋・中国問題に関して協議された。この会議は史上初の軍縮会議となった。
ワシントン会議では海軍軍備制限条約・九カ国条約・四カ国条約の3条約が成立し、アメリカの外交は大きな勝利を収めた。
海軍軍備制限(軍縮)条約
五大国における海軍の主力艦の制限交渉であった。米・英・日・仏・伊で、5:5:3:1.67:1.67の比率で制限されることになった。大戦前の無制限な建艦競争が戦争に結びついたことから、五大国が互いに制限することに合意した。日本は対米英6割を、その国力から受諾せざるを得なかった。米と英が同率とされたことは、英国海軍の大きな譲歩であった。世界は米国の時代へと移った。
海軍軍縮条約もさることながら日本にとっては九か国条約により大きな喪失を受け入れざるをえなかった。
九カ国条約
全参加国による九カ国条約の成立によって、列強が中国に保有する権益を、遅れて来た米国にも同様に門戸開放・機会均等を求める主張が国際的に認められた。この会議においては米国は終始主導権を握り、台頭する日本の行動を抑制することに成功した。そのため、日本が1915年の対華二十一か条の要求によって獲得した旧ドイツ租借地の膠州湾など、山東における特殊権益を中国に返還させられた。また1917年の日本の中国における特殊権益を認めた石井‐ランシング協定は破棄された。
この時日本は外債、資源、貿易の多くが米英依存であったため、対米英協調路線をとるほかなかった。政府も軍も、国力からしてやむなくこれを受け入れた。この頃は自分の実力をわかっていたのである。
四カ国条約
日本・イギリス・アメリカ・フランスの4国が調印。太平洋上の諸領地に関しては現状維持とするなどを規定し、第4条で日英同盟は廃棄されることになった。
アメリカの目的は、日本の太平洋方面、特にフィリピンへの侵出をさせないことにあったが、本来は日英同盟を破棄させることにあった。日本の二十一か条要求第5項に、日本が中国を保護国化する野心があることを警戒したイギリスでは日本との同盟を廃棄すべきであるという主張が生まれていた。第1次世界大戦後には、日本の中国大陸への侵出を警戒したアメリカがイギリスに対して日英の同盟関係の破棄を要求した。イギリスも太平洋方面の安全保障はアメリカなしではありえないとし、日英の2カ国同盟から、アメリカ、フランスを加えた4カ国による条約に切り替え、日英同盟破棄が条約の中に盛り込まれた。日本とイギリスの同盟関係は約20年で解消された。日本の国際的孤立時代が始まった。
これらの結果、欧州は英国を中心とするヴェルサイユ体制となり、東アジア・太平洋地域はワシントン条約によってワシントン体制となった。アメリカの外交は対中国、対日本において大きな勝利を収めた。
ワシントン会議での山東半島放棄は、日本にとって「再度の臥薪嘗胆」であったはずだ。しかし、その時には既に山東半島にはこだわらず、日本の眼は満州へと向いていた。
旅順・大連を含む遼東半島を日本では関東州と称した。南満州の鉄道の利権獲得により、1906年にこの鉄道を運用する南満州鉄道株式会社*が設立されていた。また、日露戦争後には、朝鮮と満州の権益を米国及び英国から守るために、ロシアと1907~16年の4次にわたり満州・朝鮮・モンゴル方面における権益の勢力圏分割協定を結んでいた。ワシントン会議では山東半島を失ったが、日本の主眼は南満州だけではなく満州全体の確保へと向かっていた。
*南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争の結果獲得された長春以南の東清鉄道南部支線
の経営のために設立された半官半民の株式会社である。当初は単なる鉄道会社
ではなく、鉄道附属地という名の植民地を統治・拡大する使命を負う植民地
機関でもあった。満州国成立後は純粋の鉄道会社へと変化してゆく。
しかし、米国は満州の鉄道利権への参入や、満州鉄道中立化を要求していた。さらに中国側においても瀋海鉄道や四洮鉄道の競争線化など満鉄包囲網がみられ、反日の動きが拡大し、日米・日中対立の焦点となっていった。それに対抗して日本軍部の中では満蒙領有論、そして満州事変へ向かって不穏な動きが進められていた。
以 上