参考:「ポーツマス条約で得たものから対華二十一か条要求まで」    

 

                目  次

           1、ポーツマス条約で得たもの

           2、時代背景

           3、対華二十一か条要求

           4、満蒙特殊権益とは

           5、中国への米国の侵出と日米対立 

       

 

1、ポーツマス条約で得たもの 

1905年日露によるポーツマス講和内容で日本が得たものは以下の通りである。

 

          (1) 日本が朝鮮において指導、保護、監理を行う権利を有すること

          (2) 両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退すること

          (3) 関東州租借地と長春-旅順間の鉄道を日本に譲渡すること

          (4) 北緯 50°以南の樺太を日本に割譲すること

          (5) 日本海、オホーツク海、ベーリング海のロシア沿岸漁業権を日本に与えること

      などであった。

 

ポーツマス条約締結により日本はロシアから上記の南満洲利権を獲得したが、満洲は既に半植民地状態とはいえ、あくまでも清の国家主権に属する地域であり、清国の了承なしには権利譲渡は出来ない。そのため清国に、ロシアから獲得した権益に加えて新たな要求をも付け加えてその承認を要求した。

新しい要求には南満洲鉄道(旅順~長春(後の満州国の首都新京))の吉林までの延伸と同鉄道を守備するための日本軍の常駐権、沿線鉱山の採掘権保障、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、南満州鉄道と朝鮮を結ぶ安奉鉄道*(奉天(現在の瀋陽)~安東(朝鮮との国境にある現在の丹東)の使用権継続と両国共同事業化、営口・安東・奉天における日本人居留地の設置の許可、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得など、であった。

190512月、日清間の「満州ニ関スル条約」により、ロシアから日本に譲渡された満州利権及び追加要求を含め、これを清国が了承した。認められたこれらは、以後日本の満洲経営の基礎となった。これらの条項は1911年の辛亥革命以後も中華民国北京政府*に継承されたが、張作霖爆殺事件後に奉天軍閥を継いだ張作霖の息子である張学良が同条約を否認して、併行鉄道の建設を推進し、満州事変の遠因となった。

 

        *安奉鉄道:日露戦争中に安奉線として日本が建設した安東-奉天を結ぶ軍用軽便鉄道。後に

            標準軌改修後、南満州鉄道の支線となり、安東から鴨緑江を渡ると朝鮮の京義線と接続

                          し、釜山までつながった。 

        *北京政府:1912年から1928年まで北京に存在した中華民国政府。実態上北洋軍閥政府とも

            言う。1924年頃には奉天軍閥張作霖が実権を握る。

 

中国が要求を呑んではくれたが、問題はこれらの継承した権益が期限付き権益であったことである。露清間の1898年の元条約「遼東半島租借条約」では遼東半島南部の租借地は、1923年に租借の期限が切れることになっており、それは引き継いだ日本も守る必要があった。同様に南満州鉄道(旅順~長春)も1939年には買い戻しに応じなければならなかった。また追加要求で得た安奉線も、日清間の「満州ニ関スル条約」では1923年には経営権が切れることになっていた。このことが後々へ尾を引くこととなった。

 日本政府の大勢は、これらの返還あるいは買い戻しに応ずる意志はまったくなかった。これらの期限を延長し、租借地や鉄道を引き続き日本の運営下に置いて、南満州における権益の定着化をはかろうと考え、辛亥革命以後もその機会をうかがっていた。

 

 1909年伊藤博文が暗殺された後は、元老山縣有朋を中心に、得た権益の期限以降もどう堅持し、かつそれを明確化するかへと進む。それがさらに新権益を追加して、第1次世界大戦中の1915年(大正41月、対華二十一か条要求として姿を現し、それを中華民国(当時は北京の袁世凱政権)に提示した。

 

 

2、時代背景 

欧州で第1次世界大戦19141918が始まると、列強はアジアから一時手を引かざるを得なかった。また欧州からの工業製品の輸入が途絶する一方で、日本へは連合国から軍需品の注文がまいこんだ。1915年後半頃から大戦景気の時代に入り、猛烈な好景気が始まった。日本の工業、特に重工業や化学工業の成長を促し、輸出増大により貿易収支は飛躍的に改善した。大戦景気によりあらゆる産業が発展を遂げ、第1次世界大戦は日本にとって天佑以外のなにものでもなかった。そして日露戦争で得た権益の確実化と、その後の対中国諸問題を一気に解決しようとしたのが対華二十一か条要求である。

 

それまでの間は次のような時代であった。

 

1905年 日露休戦 ポーツマス条約締結 東北地方に飢饉起こる

1906年 南満州鉄道㈱の設立

1907年 日露戦争後の戦後恐慌が起こり株式大暴落 第1次日露協約成立*

1908年 米国にて日本人移民を制限 戊申詔書発布* 恐慌激しくなる

1909年 伊藤博文暗殺

1910年 米国の南満州鉄道共同経営案を日本拒否 日韓併合

1911年 念願の条約改正(関税自主権)達成 辛亥革命始まる

1912年 中華民国成立

1913年 大正の政変*

1914年 第1次世界大戦勃発 日本参戦 山東半島・南洋諸島占領

1915年 対華二十一か条要求 大戦景気

1916年 米国ウィルソン大統領平和交渉を勧告

1917年 米国参戦 連合国の要請により日本特務艦隊地中海派遣

1918年 シベリア出兵と米高騰による米騒動起こる 第1次世界大戦休戦

1919年 パリ講和会議

 

上記のように大戦前は日本経済・社会は多くの問題を抱えて混乱しており、国民意識統合の必要性から、天皇による戊申詔書が発布されたほどであった。また、日露戦争以降、中国で得た権益が脅かされる状況にあり、その解決に第1次世界大戦は絶好の機会を与えてくれた。

大戦参戦直前の1914810日元老・井上馨は、元老・山縣有朋と大隈重信首相へ所信を送っている。「今回欧州の大過乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑にして・・・・この天佑を享受せざるべからず。・・・この戦局とともに、英・仏・露の団結一致はさらに強固になるとともに、日本は右三国と一致団結して、ここに東洋にたいする日本の権利を確立せざるべからず」と。

そして日本は823日、参戦した。

 

 

     *参考:「露協約の実態は日露軍事同盟であった」8をご覧ください。 

 

     *戊申詔書(ぼしんしょうしょ):19081014日に明治天皇により発布された詔書。2次桂内閣に

           おいて日露戦争後の暴動の続発、地方社会の荒廃・疲弊が表面化し、また社会主義、個人

           主義などによる、いわゆる「思想悪化」が問題化した。この詔書は、こうした状態に対処しよう

           としたもので、皇室を中心として「上下」が一体となり、「忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ」ることに

           よって国運を発展させ、列強に伍していくことを国民に求めたもの。 

     *大正の政変:元老による藩閥政治から政党政治を目指す運動(憲政擁護運動)が激化し、第3

           桂内閣が倒れた政変。大正デモクラシーの幕開けとなった。

  

      参考:「孫文による中華民国成立、軍閥による混乱、統一、までの経緯」8ご覧下さい。

 

 

3、対華二十一か条要求 

二十一か条要求には、第1次世界大戦参戦による直接の懸案である山東ドイツ権益の処理だけでなく、ポーツマス条約以降の期間延長等の懸案、そして日露協約による満蒙における日本の権益の対外明確化、在華日本人の条約上の保護問題についても盛り込まれた。

 

 対華二十一か条要求内容は、

  第1号:山東省の旧ドイツ権利の継承と鉄道建設の4か条。

  第2号:旅順・大連と南満洲鉄道の租借期限の99か年延長、および満蒙の日本人商租権に

       関する7か条。

  第3号:漢冶萍煤鉄公司*の日中合弁に関する2か条。

  第4号:中国沿岸の港湾と島嶼の不割譲1か条。

  第5号:中国政府に軍事・政治・財政の日本人顧問の設置、および日中の兵器規格の統一

       など7か条。   であった。

 

2次大隈内閣の加藤高明外相の主眼は第2号であったが、一部の元老、軍部、財界などの要望を盛り込み、そのため21か条に膨張したと言われている。

加藤高明外相は中国政府の実力を軽視する傾向があり、あえて第5項を加えて迫った。秘密条項とした第5項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、列強の既得権やアメリカの中国政策「門戸開放、機会均等、国土保全」の原則にも反することであった。第5項が秘密にされていた段階では、帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを責めるわけにはいかず、また要請されて連合国側として欧州へも参戦したこともあり、基本的には黙認、容認されていた。 

しかし、中国が第5項を暴露すると、アメリカとイギリスは、第5項には中国保護国化の恐れがあるとみて中国を擁護し、日本に第5項の取り下げを要求した。 

191559日、5項以外の要求をほぼ袁世凱政権が飲んだのは、混乱の中にあった中国政権と、勢いに乗る日本の差であった。日本はこれにより、1932年の満州国建国時には日本の3.4倍の面積がある満州を手に入れることになる。それは資源と市場の確保、そして移民先でもあった。

 

一方で、元老・山縣有朋は21か条要求に対し、「対支関係に付き各国の情況を取調べず、訳の分らぬ無用の箇条まで網列して請求したるは大失策なり」と述べている。当時、野党の政友会総裁だった原敬も、中国を侮った加藤の外交姿勢を批判している。しかし加藤高明外相は新世代の政治家であり、元老らの意見を黙殺して実施した。政治は世代交代の時期に入りつつあった。

しかし列強の怖さを承知している山縣といえども、やはり「20億の資材と20余万の死傷を以て獲得したる所の戦利品」の発想である。新聞各紙の論調は二十一か条要求は当然かつ正当として政府の弱腰を非難した。徳富蘇峰や袁世凱の息子の家庭教師をしたことのある吉野作造*でさえも同様であった。但し東洋経済新報の石橋湛山は満州を放棄し、小日本国主義で行くことを主張していた。しかしそれは例外的な少数意見に止まっていた。

 

       *漢冶萍煤鉄公司:1908年、漢陽鉄廠,大冶鉄山,萍郷炭鉱が合併して設立された製鉄会社。

                            日本は対華二十一か条でこの公司の日華共同経営を要求し、投資を強化して支配権を

             握った。その後は日本に鉄鉱石を供給した。 

       *吉野作造:大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家で、大正デモクラシーの旗手で

             あり「民本主義」の提唱者である。 「分岐点3」吉野作造の項を参照下さい。 

 

4、満蒙特殊権益とは 

 日露戦争や第1次世界大戦により得た権益や、さらに中国に迫って利権を拡大したものなど、満蒙(南満州と東部内蒙古)における、他国には等しく適用されない日本の専有、優先が認められた特別の権益のこと。いずれも条約や協定で国際法上適法の形式をとり、列国も承認ないし黙認した。ただ特殊権益の概念は法的に確立しておらず、満蒙権益をことさら特殊とする日本の主張は中国も列強も積極的には認めなかった。1920年代に入ると国民政府は満蒙地区を含め国権回復運動を推進し、外国利権の回収・空洞化を図ると、日本は危機感をつのらせ、特殊権益の保護を口実に 満州事変を引き起こすことになる。

  

5、中国への米国の侵出と日米対立  

 中国への進出に遅れをとっていたアメリカは、1900年の国務長官ジョン・へイによる門戸開放、機会均等、領土保全を掲げて中国への割り込みを画策した。そのねらいは日露が権益を主張し合う満州にあった。   

 当時、しだいに、列強は植民地も確保していたが、時代の流れもあり、租借地や利権の獲得によって支配する方向へと変わっていた。そこで米国は、国として中国の「主権尊重・領土保全」を認めた上で、中国に対して「門戸開放」と「機会均等」を求め、より早期の中国市場への参入をねらった。

 日露が開戦に至ると、セオドア・ルーズベルト大統領は開戦初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ハリマンが先頭に立って日本の戦時公債を買い支えるなど、アメリカは満洲蒙古シベリアほかへの権益介入のために日本を支援していた。  

 日露戦争後、アメリカにおける日本人移民排斥運動*もあり、日米間にさまざまな緊張関係が生まれていた。ポーツマスでの日露戦争講和調印直前の19058月末に来日した鉄道王ハリマンによる満鉄日米共同経営案、19078月にアメリカの奉天総領事ストレートによって提示された満州開発のための金融機関東三省銀行の設立計画等は、日本の南満州独占に対するアメリカの対抗策であった。さらに19093月大統領にタフトが就任し、アメリカ資本の中国輸出を積極的にすすめる「ドル外交」を展開、同年10月に満州の南北縦貫鉄道「錦愛鉄道」の建設計画、 11月には満州諸鉄道中立化案を提起して、日露の満州における優越的な地位をとりくずそうとした。しかし、日露の猛反対と英仏も反対して、いずれも失敗に終わり、逆に日露の提携を強化させ、満蒙地域に関する日露協約は1907年から19164次にわたり継続・合意された。満州で利権獲得の機会を失ったアメリカは、中国本土へも目を転じたが、これによって満州の権益をめぐる日米の対立が消滅したわけではなく,むしろ深く潜行していった。 

1次世界大戦(19141918年)は、イギリスを始めとする西欧諸列強はすべて欧州戦線に忙殺され、東アジアを顧みる余裕がなかった。大戦中の19171月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。また米国とも191711月石井・ランシング協定*にて中国での権益を日米双方で認めあった。

 

 

       *石井・ランシング協定:第一次世界大戦中の191711月に成立した中国に関する日米協定。

              日本は米国の主張する中国における門戸開放、機会均等、領土保全を認め、米国は

             日本の満州における権益を認めるという協定。                          

 

 

 当時は英、米、露が世界の三大国であり(仏は戦場)、国際社会の力関係で生き抜いていくには、この3カ国を味方にする必要があった。逆に、この国々が認めれば、反発する国は世界中に存在しなかった。こうして日本は第一次世界大戦で獲得した権益を確かなものにした。

 

       * 参考:「日本人への人種差別の経緯」8をご覧ください。

 

中華民国も1917年、大戦に参戦し戦勝国となった。山東省のドイツ権益について、中国はドイツに宣戦したからには直接中国へ還付されるべきと猛反対をしたが、パリ講和会議において19194月、日本は要求が通らなければ国際連盟への参加を見合わせるとし、対日強硬派である米国ウィルソン大統領もそれに屈して日本の要求は通った。ウィルソンの国際的平和維持機構の提唱により設立された国際連盟ではあったが、米国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対により条約が批准できず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。

 

その後の、米国主導による、日本の中国及び太平洋地域への拡大を抑えるための国際的合意作りを目指したワシントン会議にて、中国に関する「九ヵ国条約」が19222月調印された。そこで日本は二十一か条要求で得ていた山東省の旧ドイツ権益を中国へ返還させられた。米国の中国における「門戸開放・機会均等」の主張がこの条約で成文化され、国際的に承認された。このため、日本の中国における特殊権益を認めた石井‐ランシング協定は廃棄された。

 

なお、日英連合軍の青島攻撃時に、日独の飛行機が出撃し、日本戦史上初の空中戦が行われた。             

 

 青島空中戦は19141013日におこなわれた。ドイツのタウベ1機に対し、日本軍は陸軍からニューポールNGとモ式、海軍からはモ式2機が発進し、空中戦を挑んだ。ドイツのタウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていたが、包囲されかけたため2時間の空中戦の末に撤退した。これが日本軍初の空中戦となる。 

 

 

ニューポールNG フランスから購入

 

モ式(モーリス・ファルマン MF-7) フランスから購入

 

 

 

 

ドイツ軍のタウベ

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                            以 上