参考:「日露協約は日露軍事同盟であった」
日露協約は日露戦争後、1907~1916年の4次にわたり締結した日本とロシアがお互いに権益を認め合った協約である。
第1次日露協約成立の背景
日露戦争後、反露感情の残る日本は日露協約(日露協商とも言う)締結には消極的であったが、それを背後から推したのがフランスとイギリスであった。
その背景には欧州の政治情勢が大きくかかわっていた。1887年に独露間の軍事同盟である再保障条約が成立していたが、1890年、ビスマルクを辞任させたドイツ帝国のヴィルヘルム2世は独露間の再保障条約の継続を拒否したため、ロシアはフランスへ接近した。当時バルカン半島から中東方面への進出を狙うドイツに対抗するため、イギリスとフランスはドイツ包囲網をつくろうとしていた。
1891年~94年にかけて露仏同盟が成立し、1904年に英仏協商が締結された。次いで日露戦争に敗れたロシアは東アジアの侵出をあきらめ、中東方面ほかの勢力範囲調整のためイギリスに接近し、1907年英露協商を締結した。露仏同盟・英仏協商・英露協商によって作られた三国の協調関係を三国協商と言い、三国同盟(独墺伊)に対抗して第1次世界大戦前の世界政治を二分した。
外交上自陣営へ引き入れるため、日露戦争後で財政が厳しい日本に対し、フランスとイギリスがその国債を引き受けるという条件により日本にロシアとの提携を迫った。日本も実利を取って日露協約が1907年に成立した。このように世界情勢が日本外交にも密接に結びついていたのである。
日露戦争はポーツマス条約(1905年)で講和となり、ロシアは満州北部を確保したものの、大方針であった満州南部から朝鮮半島方面への進出の道は閉ざされた。アジア方面での南下をあきらめたロシアは、その目標をバルカン方面に集中する。そのため、中国での権益を維持しつつ、日本との衝突をさけることを得策と考えた。一方、日本は米国の満州進出に対抗する必要上、ロシアと結ぶことを良しとして協約成立へと向かった。日露により満州分割がなされることを警戒したアメリカは強く反発し、折からカリフォルニアで強まっていた日本人移民排斥運動と結びついて反日感情が強まった。
その後、辛亥革命の勃発、第一次世界大戦という情勢に応じて4次にわたって改定され、最終的には1916年の第4次においては日露同盟とも言われる軍事同盟にまで深化した。
第一次日露協約
1907年(明治40年)7月に調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することとし、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定ではハルビンと長春の中間点を境界として北満州をロシアの、南満州を日本の勢力圏とし、外蒙古のロシアの特殊権益を日本が認め、日本と韓国が共通利害関係にあることをロシアが認めることを定めた。日本はこの協定によってロシアから承認されたとして、韓国併合を1910年に実現した。
第二次日露協約
1910年(明治43年)7月に調印。秘密協定で相互の勢力圏における特殊権益の確保のために両国が協調することを定めた。背景にはその前年、米国の国務長官ノックスによる満州鉄道中立化計画案(米・日・英・仏・独・露・清の7ヵ国による満鉄経営)の提案があり、これに日露が反発していた。なおこの満鉄中立化提案は日露のほか英仏も反対したため実現しなかった。
第三次日露協約
1912年(明治45年)7月に調印。勢力範囲を満州から広げ、モンゴルと中国西部に及ぼし、内モンゴルは権益を日露で東西に分割した。その背景には、1911年の米国などの四国借款団が幣制改革、産業開発のために清朝に対して借款を申し入れたことにある。アメリカの狙いは借款を通して満州に浸透しようとするものであり、日露両国が提携して阻止しようとしたものである。加えて1911年の辛亥革命により清朝が倒れたことに対応した協約更新でもあった。
第四次日露協約
1916年(大正5年)7月に調印。第一次世界大戦中の更新であり、日露の関係強化とそれまで相互に承認した中国での権益を守るため、相互に軍事援助を行うという秘密相互援助条約とした。軍事同盟にまで深化したのでこの段階で日露同盟と言う場合もある。
江戸時代末期から延々と日本の脅威であり続けたロシアとは、この日露協約締結期間の10年間のみは無風時代であった。
1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はレーニンによって廃棄された。日本は中国権益の不安定化を迎えることとなるが、一方で日本は、ロシア革命で帝政ロシアが崩壊したことを受け、その満州支配を排除し、あわよくばシベリアまで支配を拡大できると考えた。その背景もあって、実行したのが1918年のシベリア出兵である。
以 上