参考:「日本を震撼させた阿片戦争」

 

阿片戦争 1840年~1842年

 

当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入しており、イギリスの大幅な輸入超過であった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した阿片を清に密輸出する事で超過分を相殺することにした。当時の列強の植民地政策は、現地の住民のことなど関係なく、可能な限り収奪することが主な目的であったと言っても良い。

中国では、明朝末期から阿片吸引の習慣が広まっており、阿片の輸入量増加により貿易収支が逆転した。道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣に任命し広東に派遣、阿片密輸の取り締まりに当たらせた。林則徐は非常に厳しい阿片密輸に対する取り締まりを行った。林則徐は没収した阿片をまとめて廃棄処分し、この時に処分した阿片の総量は1400トンを超えたと言われている。

 これに対し、イギリスは遠征軍派遣を決定した。いかに植民地のこととはいえ「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々の反発が強く、「不義の戦争」とする批判があった。しかし、清に対する出兵予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認された。この議決を受けイギリス海軍は東洋艦隊を編成して派遣し、1840年11月に戦端が開かれた。

 英国艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った。天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を解任し、和平派の琦善を後任にしてイギリスに交渉を求めた。イギリス軍側もこれに応じて9月に一時撤収した。

18411月には川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結された。ところが英軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝は琦善を罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否した。

  イギリス軍は軍事行動を再開し18425月には揚子江へ進入を開始し、上海,鎮江を陥れて京杭大運河を封鎖し南京に迫った。この状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われた。

18428月、両国は南京条約に調印し、阿片戦争は終結した。本条約では英国への多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められ、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。この英国と清国との不平等条約同様の条約がアメリカとの望厦条約、フランスとの黄埔条約などとして結ばれた。

 清朝の敗戦は清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃を与えた。中国は文明国であり大国であるとの認識に日本は立っていたが、この戦争で中国の弱体化と列強の植民地獲得戦争に、日本は驚きと恐れを実感した。そして速やかな国体の変革が急務であることを日本中に知らせしめた。中国国内では重要視されなかった魏源*の「海国図志」もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰や佐久間象山らの幕末における改革機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐や魏源の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになった。一方で清朝国内では「香港島を与えておけば英夷も満足するであろう」との慢心が根強く、魏源が訴えた改革の必要性が国内に強く認識されることはついになかった。

 

*魏源:阿片戦争にはじまる欧米列強の侵略とたび重なる中国の敗北は中国知識人の華夷意識を大きく動揺させ、西学に目が向けられるようになる。魏源は西洋事情とともに欧米の科学技術や産業の優秀性にいち早く注目した1人で、林則徐と親しく、新思想の提唱者として中国を世界に目を開かせる役割を担った知識人の代表である。阿片戦争敗北を眼前にし、世界情勢を叙述した「海国図志」を書く。海国図志は日本でも翻刻され、佐久間象山、吉田松陰らの幕末の志士に影響を与えた。事物を客観的実践的に把握し、それを具体的に政治に応用して現実を変革すべきであると説く点は、時流を抜く観がある。魏源が伝えようとした列強の東アジア進出という危機感を真剣に受け止めたのは日本であった。

 

それまで、江戸幕府は異国船打払令を出すなど強硬な姿勢を採っていたが、阿片戦争の結果に驚愕し、阿片戦争が終わった1842年(天保13年)には方針を転換して、薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させた。この幕府の対外軟化がやがて開国の大きな要因となり、後の明治維新を経て日本の近代化へとつながった。

 

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