3、戦争に敗けて初めて戦いを終われる国・日本 日中戦争から敗戦に至る経緯
1933(S8)年~1945 (S20)年
支那事変 仏印進駐 三国同盟 第2次世界大戦 終戦
1931年9月、関東軍の謀略による柳条湖事件により開始された満州事変は1933年5月の塘沽停戦協定成立により、一応は終わった。
日本の軍部は第1次大戦により戦争は長期・総力戦となることは知っていた。しかし既に中国とは長期消耗戦になっていた。華北に於いては衝突事件が相次ぎ、陸軍にとっては満州国の防衛のためにも、対ソ戦略の観点からも華北から国民政府軍を排除しなければなかった。日本政府は中国における地方の軍事問題は外交の対象ではない、現地軍が現地政権と交渉すればよいとしていた。支那事変全体が軍部独走体制の下にあった。加えて、永田鉄山構想の大日本帝国維持のためには、満州だけでは足りない資源と市場を、華北、華中へと求め、華北分離工作が始まった。それによりいつまでも終わらない日中戦争へと落ち込んでいった。
1939年9月に欧州で第2次世界大戦が勃発した。ドイツは快進撃を続け、蘭・仏を占領した。アジアにおいて日本は北部仏印(仏領インドシナ:ベトナム・ラオス・カンボジア)へ進駐し、米英との軋轢を生じていく。この先、米・英国との戦争になれば長期・総力戦は必至だ。大日本帝国の体面を保ちつつ米英独ソに伍していくには、日清・日露戦争で味をしめた一撃講和方式しかない。国力の差からも一撃講和で終われれば対抗できる。その準備と中国戦維持のためにも、先ずは東南アジアの資源が必要となった。南部仏印はタイ、イギリス・オランダの領植民地に圧力をかけられる要地であり、1941年7月日本軍は仏印南部へ進駐した。そこから武力による英領マレー(マレー半島・シンガポール島)、蘭領東インド(スマトラ島・ジャワ島・ボルネオ島など)の資源確保へと進み、英米蘭戦争へと突入していった。勝てるはずのない米国との戦争へ、なぜ進んで行ったのか?!
1933年(昭和8年)2月国際連盟退場・5月塘沽停戦協定成立から、実際上の太平洋戦争の始まりと言われる1939年から真珠湾急襲開戦までを振り返ってみた。
東京朝日新聞
42対反対1票(日本)、棄権1票(シャム:タイ)
なお、第1次世界大戦後から満州事変開始に至る経過と満州事変の開始から塘沽停戦協定までの経緯は、「2.戦争の流れを押し止めることができた分岐点はあったのか、それは何時か!」の中の「分岐点4 周到に準備された満州事変をなぜ事前に止められなかったのか」、及び「分岐点5「天皇は『統帥最高命令』発動により満州事変・熱河作戦を阻止しようとした」をご覧下さい。
1933年(昭和8年)
2月24日 国際連盟総会から退場
5月31日 塘沽停戦協定成立
河北省東部に非武装地帯を設けるなど日本の主張をほぼ全面的に容認した塘沽停戦協定が成立した。河北省東部に東西200キロ・南北100キロという、ほぼ九州に匹敵する地域を非武装化し、満州国の中国からの分離が国民政府によって暗黙に認められた。満州国南側国境の安全が確保された。関東軍は長城線へ撤収し、これにより柳条湖事件に始まる満州事変は一応終わった。
1931年12月13日に犬養毅が組閣した際、犬養に請われ4度目の蔵相に就任した高橋是清は即日金輸出再禁止を実施した。それにより大幅な円安となり、輸出が急増し景気は急速に回復、1933年には日本は世界に先駆けて大恐慌を脱することができた。加えて、満州事変による軍事工業の好況による満州景気と相まって、1934年~36年は、戦前では最も豊かな時代であったと言われている。日本銀行百年史に当時の鉱工業生産指数の国際比較があり、暗黒の木曜日の年である1929年を100としての経年変化を記している。3年後の1932年には、日本は97.8とほぼ恐慌前に近づいていたが、英国は83.5、米国は53.8であった。翌1933年には日本は恐慌前を越えて113.2となるが、英国は88.2、米国63.9に止まっている。
その好景気の陰で、1931年から1934年に東北・北海道が大凶作に見舞われ、貧窮のあまり欠食児童や女子の身売りなどと深刻な状態もあった。以降、1936年の二・二六事件へと続く暗殺やクーデター未遂事件が度々起こっていく。また、永田ほか陸軍中枢幕僚と関東軍は、満州支配に収まらず、華北支配への更なる衝動を生み出していた。
7月11日 神兵隊事件起こる
右翼団体が中心となり,陸海軍の青年将校も加わったクーデター未遂事件。首相以下政・財界首脳を暗殺し、天皇親政の昭和維新を行おうとしたもの。
1934年(昭和9年)
1月 陸軍省による国民意識改革への活動が開始される
陸軍は「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)*などによる国民意識改革への活動を開始した。
* 1929年(昭和4年)1月の木曜会*において、組織的に陸軍大臣を動かし、国政に積極的に介入するとの結論に達していた。この考え方は永田鉄山らの一貫した考え方であった。本来、現役軍人の政治への関与は禁止されていた。にもかかわらず、陸軍中央の幕僚達は大きく政治への係わりを目指して進んでいくことになった。
陸軍では大戦でのドイツ敗北の原因を分析して、国防とは軍備増強だけではなく、総力戦遂行のためには国民意識の改革と組織化が必要だとし、そのための啓蒙活動を具体的に開始した。
1月の陸軍省による「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」には、政党・政友会の選挙スローガンなどに農民救済や国民保健や労働政策の項目がなかったのに対して、農民救済の項目では、義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権保護をめざすなどの項目が掲げられ、労働問題については、労働組合法の制定、適正な労働争議調停機関の設置などが掲げられていた。これをもとに10月には「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる「陸軍パンフレット・陸パン」を作り広く配布した。国防は「国家生成発展の基本的活力」と定義し、いちばん大事なのは国民生活だとした。「国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救済は最も重要」と書き、広報活動を展開した。
国民は陸軍の具体的スローガンに、政治や社会を変革してくれるとして期待が膨らんでいった。
* 木曜会:陸軍中央の少壮幕僚グループによる陸軍の装備や国防の指針など軍事にかかわる
問題を議論・検討する少人数の集団。石原莞爾、永田鉄山、東篠英機らも会員。
7月8日 岡田啓介挙国一致内閣成立
帝人事件*を契機として総辞職した斎藤実内閣の後を受け、海軍長老の岡田啓介を首班として組閣された内閣。重臣会議*よる推挙という新方式で首相が決められ、この方式は以後の先例となった。陸相は林銑十郎が留任したが、その後の永田鉄山斬殺事件で引責辞任した。
*帝人事件:1934年(昭和9)帝国人造絹糸の株式売買で帝人重役や大蔵省
幹部が背任・贈収賄の罪で逮捕された事件。斎藤内閣が総辞職したが、
37年全員無罪となる。軍部・右翼の斎藤内閣倒閣の策謀による事件と
みられている。
*重臣会議:内閣総理大臣経験者と枢密院議長及びこれを主宰する内大臣に
よる会議。最後の元老・西園寺公望の最晩年からその元老としての機能
を引き継ぐ形で始まった。
11月20日 陸軍士官学校事件(十一月事件)発生
皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らによるクーデター未遂事件。首相、重臣、財閥首脳などを暗殺して混乱を起し、戒厳令下に革新軍政府の樹立を謀ろうとした。証拠不十分として不起訴。関与した青年将校たちは2年後の二・二六事件で中心メンバーとなった。
11月 中国労農紅軍(共産軍)は江西省瑞金を放棄し西へ北へと逃避行が始まる
蔣介石は第五次剿共戦で11月に共産軍の瑞金を陥落させた。華北、華南を追われた共産軍は1936年の陝西省延安まで、12,500㌔の徒歩による逃避行をやむなくされた。これを中国では長征と称している。
12月29日 ワシントン海軍軍縮条約の破棄を宣言
岡田啓介内閣はワシントン海軍軍縮条約破棄を閣議決定し、アメリカに通告した。第1次世界大戦後の国際秩序、いわゆるヴェルサイユ・ワシントン体制から離脱した。翌年3月にはナチス・ドイツもヴェルサイユ条約を破棄する。
ワシントン海軍軍縮条約締結により、海軍軍縮に反対する反条約派が増大し、1930年の第1次ロンドン海軍軍縮条約締結以降は軍令部を中心に反条約派(艦隊派)勢力が拡大、統帥権干犯問題にまで波及した。強硬な艦隊派を抑えられず、岡田内閣はワシントン条約の破棄を通告し、1936年1月には開催中の第2次ロンドン海軍軍縮会議を脱退した。
1935年(昭和10年)
3月 ドイツ・ヒトラーは再軍備宣言をしてヴェルサイユ条約を破棄した
永田陸軍省軍務局長は、ドイツの再軍備を受け、欧州で戦争が起こり、それは次期世界大戦になるとした。その備えのために華北分離工作の必要性を実感し動き出した。
6月 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が成立
中国・国民政府が支援する匪賊活動・排日運動が激化していた。これを塘沽停戦協定違反として、支那駐屯軍司令官梅津美治郎は国民党政府の華北軍事責任者何応欽(日本の陸軍士官学校卒)に対して、河北省での中国軍の撤退などを要求し、梅津・何応欽協定を結んだ。これにより非武装地帯は河北全省に広がり、事実上、国民政府が華北を放棄したに等しい。ただし、この協定は両者が調印した文書はなく、日本側の要求を中国側が実行したという形であった。
当初、中国は外交交渉を求めたが、広田弘毅外相は停戦協定にもとづく軍事事項であり、政府は関与しないという態度で取り合わなかった。停戦協定成立後であるにもかかわらず、対中国外交を外務省ではなく現地の軍部が交渉・協定してしまうという軍部外交であった。
その後同月、河北省北の内蒙古・察哈爾(チャハル)省でも関東軍が同様の「土肥原・秦徳純協定」を結んだ。
これにより北京市・天津市を取り囲むように位置する河北省と察哈爾省から国民党勢力と中国軍を撤退させた。両協定は華北分離工作への重大な一歩となった。
塘沽停戦協定後、日中関係は斎藤・岡田内閣のもとで国民政府との間に「日華親善」の気運が高まっていた。しかし一方で軍部に於いては、支那駐屯軍・関東軍主導で、中国北部の華北五省(河北・察哈爾・綏遠・山西・山東)を国民政府の支配から切り離し、分離独立をめざす政治的な工作(華北分離工作)が開始されていた。
8月6日 「対北支那政策」が現地へ通達された
陸軍次官から、陸相の承認を受けて、関東軍・支那駐屯軍などに対して「対北支那政策」が通達された。同政策には華北五省の自治化による南京政府からの分離、すなわち華北分離にむけての工作を指示している。軍部が独走先行することが当たりまえの状況であった。これには永田軍務局長が主務局長として承認印を押している。なお、この対北支那政策の内閣正式承認は翌年1月に「第一次北支処理要綱」として追認された。
陸軍内に皇道派と統制派の流れがあった。1931年(昭和6)12月、荒木貞夫が犬養毅内閣の陸相に就任すると、従来からの彼の皇道主義的思想は青年将校たちの共感を集め、皇道派の首領とされた。青年将校たちは荒木・真崎体制の下で昭和維新を実現するという過激な運動を展開していった。一方で、こうした風潮を憂慮した永田ら一夕会主流派の幕僚将校たちは、青年将校運動を封殺するとともに、軍中央の一元的統制の下に国家改造を図る計画を進めた。永田らの主流派(統制派)と荒木・真崎の皇道派とに分かれていった。
荒木は陸相就任後には、自分の意見に固執することなく発言も現実的なものになっていったが、その後過激青年将校達を制御できなくなり、斎藤実内閣陸相を1934(昭和9)年1月に病気を理由に辞任した。後任陸相に林銑十郎が就任し、林陸相の下で軍務局長永田鉄山を中心とする統制派が、乱れた統制の回復、下剋上の風潮是正に乗り出し、皇道派の一掃を図った。
8月 12日 永田鉄山斬殺(相沢事件)
皇道派が次の首領と仰ぐ真崎教育総監罷免が7月に起こるや、8月に相沢事件が起きた。相沢三郎中佐は真崎が更迭された直後に陸軍省に永田軍務局長をたずね、皇軍を私兵化する統制派の元凶として斬殺した。永田はまだ51歳であった。相沢は銃殺に処せられた。
永田が生きていれば太平洋戦争へは落ちこまなかったとする説もあるが、それは永田の持つ合理性に対して、太平洋戦争時の戦争指導があまりにも非合理的だったからであろう。
11月25日 親日的な冀東防共自治委員会を樹立
6月の梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定により華北の中国軍を排除した日本軍は、塘沽停戦協定の非武装地帯に、殷汝耕((早稲田大学卒)を代表とした河北省東部(冀東)に親日的な冀東防共自治委員会を樹立させた(後に冀東防共自治政府と改称)。
12月18日 一方で国民政府は冀察政務委員会発足させた
国民政府は日本の圧力をかわすため日中間の緩衝地帯として、河北・察哈爾両省と北平、天津両市にまたがる地域に、国民政府の地方機関である冀察政務委員会を設立し華北自治にあたらせることにした。日中の緩衝政権であり日本との妥協の産物であった。土肥原賢二少将が顧問となり、次第に日本の影響下に入ったが、傀儡というよりは中間的存在であった。
日本国内では、この年には東北地方の凶作により娘の身売り問題がおこる。
中国においては抗日運動が激化し、日本人が殺される事件が相次ぎ、衝突事件が頻発していた。
北支五省・冀東防共自治政府
・冀察政務委員会
1936年
1月13日 岡田啓介内閣は「第一次北支処理要綱」を閣議決定した。
北支五省の自治化を企画する「第一次北支処理要綱」を閣議決定し、華北分離を関東軍・支那駐屯軍から国策のレベルに浮上させた。
華北分離工作の動きに対して中国の抗日救国運動は高揚し、12月の西安事件へとつながる。
1月15日 ロンドン海軍軍縮会議脱退
岡田内閣はロンドン海軍軍縮会議*からの脱退を通告した。1933年の国連脱退、1934年のワシントン条約破棄とともに、日本の国際的孤立を決定づけた。
日本は翌年から巨大戦艦「大和」と「武蔵」の建造を開始した。
*ロンドン海軍軍縮会議:ワシントン海軍軍備制限条約の期限が切れたため、1930年1月~4月にその更新について開催された会議(第一次)。補助艦制限について米・英10に対して日本は6.975の比率とすることなどが定められ、岡田内閣は調印した。有効期限は1936年までとされた。さまざまな曲折を経て、10月2日、正式に同条約が批准されたが、野党・立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎らはいわゆる「統帥権干犯問題」を提起した。
条約満期に伴い第二次ロンドン海軍軍縮会議が1935年12月に開催されたが、日本は翌1月に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵攻のため脱退した。軍縮時代は終わり、軍拡・無条約時代が始まった。
2月26日 二・二六事件起こる
二・二六事件については、当時侍従武官長であった本庄繁陸軍大将による「本庄日記」に、天皇と側近の4日間が詳細に記されている。 参考:「二・二六事件」8 をご覧ください。
3月9日 広田弘毅挙国一致内閣成立
岡田内閣が二・二六事件後総辞職したのをうけ、元老・西園寺は近衛文麿を推し、近衛に組閣命令が下ったが近衛は病気を名目に辞退した。そのため軍部の圧力で、親軍的官僚中心の挙国一致内閣として、斎藤・岡田内閣で外相であった広田(外務官僚出身)が指名された。広田は拒み続けたが、ついには承諾し首相に就任した。しかし、軍部を抑えられず11ヶ月間の短命内閣となった。
広田は極東軍事裁判のA級戦犯で絞首刑になった唯一の文官である(近衛文麿は服毒自殺した)。
11月25日 日独防共協定成立
ソ連を仮想敵国として日独の提携を規定した。
この日独防共協定に翌年イタリーも加わり、ヴェルサイユ・ワシントン体制のと全面対決する路線へとなった。1940年9月には日独伊三国軍事同盟へと進展していく。
第1次世界大戦後のドイツ・ワイマール共和国は多額の賠償金と毎年約90万の人口増加という困難に直面していた。それを背景に1926年、ヒトラーは著書「我が闘争」において、ユダヤ人排斥ならびにヨーロッパ東部におけるドイツ民族の「生存圏」確保という2つの基本目標を設定した。そこには将来におけるヒトラーの戦争目的がはっきりと示されていた。ドイツ国民によって選挙で選出されたヒットラーは1933年1月に首相となり、同年3月には全権委任法(絶対的権限を付与する法律)を成立させ、完全独裁政権となった。1937年11月、ヒトラーは「生存圏」獲得のための侵略対象地域をドイツ東方のスラブ人居住地帯と示した。対象となったスラブ人の国とは旧ソ連及び東欧諸国すべてを指す。
12月12日 西安事件起こる
張学良らが蒋介石を監禁した事件。張は内戦の停止、一致抗日などを要求。蒋は要求を原則的に認め、抗日民族統一戦線結成のきっかけとなり、半年後に国共合作が実現する。
前年から中国各地で日本人が射殺されたりする事件が頻発していた。
1937年
2月2日 林銑十郎挙国一致内閣成立
広田弘毅内閣は政局の混乱により内閣不一致で総辞職した。大命が降下したのは予備役陸軍大将の宇垣一成だったが、陸軍内では反宇垣派が大勢を占め陸軍大臣を推薦せず、結局宇垣は大命を拝辞するに至った。あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下し、組閣した。林はその親軍的・反政党的姿勢のゆえに、総選挙で大敗し、組閣後4ヵ月で総辞職に追い込まれた。その名前から「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。
短命内閣が続いた。当時、陸海軍からの受けも悪くなく、財界・政界からの支持もあり、国民の期待の高かった近衛文麿の出現を願わせ、次の第1次近衛内閣に過剰な期待をかける原因ともなった。
6月4日 近衛文麿挙国一致内閣成立
貴族院議長近衛文麿によって組織された。
盧溝橋事件から支那事変勃発
1937年7月7日~
7月7日
北京郊外の盧溝橋付近で起こった日本軍への発砲をきっかけに日本の支那駐屯軍と冀察政権(政務委員会)軍との衝突に発展した事件。この事件が、以降日本の敗戦まで、8年も続く日中戦争のきっかけになるとは日中双方ともに予想だにしていなかった。11日には現地にて停戦協定が成立した。盧溝橋は12世紀末に金(中国の北半を支配した女真族の王朝)によりつくられた北京郊外の永定河に架けられた橋で、マルコ・ポーロが東方見聞録でその橋の美しさを称えたことで有名(西欧ではマルコポーロ橋と呼ぶ)。
一方で、国民政府中央軍が北上中との情報が入り、同日日本政府(第一次近衛文麿内閣、外相広田弘毅)および軍中枢は事件が中国側の計画的な武力抗日であると判断し非難するとともに、重大な脅威を受ける現地軍と居留民のために陸海軍を増派した。宣戦布告は行わず当初は北支事変と称した。戦闘が上海に拡大した後の9月に支那事変と命名した。当時、満州を除く中国には約8万の日本人が居住しており、そのうち北平・天津地区には1万5000人が住んでいた。7月19日、国民政府は現地での停戦協定を承認しないと言明し、20日には再び衝突が起きている。その後も局地戦が各地で頻発し、28日に華北の支那駐屯軍による総攻撃が開始され、事実上の戦争となった。7月29日に日本軍は北京を占領した。蔣介石は31日、和平は絶望的で徹底抗戦あるのみと全軍を督励した。一方で蔣は、上海で戦闘を起こすため部隊の主力を黄浦江南岸に集中配備するよう命じている。国際都市である上海で戦闘になれば、対日制裁など外国の支援を得られると考えていた。
日本軍が北平・天津地区を攻略し、北京近郊では日中両軍の衝突が多発していた(廊坊事件、広安門事件)が、事態は小康状態となり、日本側から和平工作を働きかけた(船津工作)。しかし、戦火が上海へ飛び火し和平交渉は吹き飛んでしまった。
8月13日
第2次*上海事変起こる
9日、上海において、日本上海海軍特別陸戦隊の2名が殺害され(大山事件)緊張が高まった。一方の蔣介石は、8月12日に国民党陸海空軍の総司令官となり、戦時状態に既に入ったと宣言した。
蒋介石は、上海での戦闘に積極的であった。
それは、上海が列強の権益が錯綜する地域であり、上海戦は列強の日本への介入、それにともなう国際的な対日制裁に期待をしていた。
13日蒋から上海陸戦隊を攻撃せよとの指示が出され、14日午後中国軍は先制攻撃を開始した。戦後、当時上海での作戦を担任していた張発奎は、上海戦では中国が先に仕掛けたと回想している。上海における開戦は中国側の入念な準備の下になされたものであった。14日国民政府は「自衛抗戦声明」を発表、日本側はこれを事実上の宣戦被告と受けとめた。同日蒋は全国総動員令を下達している。
* 第1次上海事変は、満州事変中に、満州に集中している列国の関心をそらすため、関東軍の謀略によって1932年1月~3月に起こされた戦闘をいう。
ここに盧溝橋事件以来の華北での戦争状態に加え、上海でも中国軍と日本海軍陸戦隊との戦闘が開始された。これは華北のみならず中国全土を戦場とする全面戦争へと転換する契機となった。15日に蔣介石は全国総動員令を下達した。しかし、戸籍制度の不備から実質機能はしなかった。
以下、支那事変から太平洋戦争開戦に至る軍部独走の経緯を記す。
8月17日
盧溝橋事件以降日本は不拡大方針であったが、中国軍による先制攻撃に対処するため、閣議で不拡大方針の放棄を決定した。9月2日には北支事変を支那事変と改称した。
日本側はこの時点でも中国の抗戦力を軽視し、暴支膺懲*、対支一撃論が生きていて、中国との全面戦争を決意していたわけではない。
*膺懲:征伐してこらしめること。日本陸軍の当時のスローガンに「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」がある。「暴戻(ぼうれい・道理に反する)支那ヲ膺懲 (ようちょう)ス」の略語
9月23日 国共合作が実現した
抗日協議をしていた国共両党はあゆみより、共産党軍が国民革命軍に再編された。
祝杯を挙げる蒋介石と毛沢東
11月11日
日本軍は上海全域をほぼ制圧した
11月15日 現地軍は首都南京へ向かって独断追撃を開始した
当時参謀本部は、中国駐在ドイツ大使トラウトマンによる和平工作中であったが、現地軍の進撃を制止することはできなかった。
12月1日 大本営は南京攻略を追認した
12月13日 南京陥落。国民政府武漢へ移動
南京事件起きる。非戦闘員への殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者数等については諸説あり、ここで
当時高等女学校生であった脚本家の橋田壽賀子さんは、「私の履歴書」にこう書いている。日本軍は「首都、南京を占領した。首都が落ちれば戦争は終わると信じられていたから、この報に日本中が沸き立った」と。
1938年
1月16日 近衛声明「国民政府を対手とせず」
駐華ドイツ大使トラウトマンを通じた和平交渉を行なっていたが、南京が陥落したことから、近衛内閣は賠償と領土割譲を含む高圧的な和平条件を12月 26日に通告、蒋政権からは回答がなく、翌 1月 14日の閣議で交渉打ち切りを決めた。国民政府との和平交渉は無理と判断した。
3月ドイツはオーストリー、9月チェコスロヴァキアのズデーデン地方を併合
ヒトラーは先ず国外に暮らしているドイツ民族を「ドイツ帝国」の下にまとめようとした。38年に、自分の出生地でありドイツ人国家であるオーストリア及びチェコスロヴァキアのドイツ人居住区域ズデーテン地方を併合した。ズデーテン地方は第1次世界大戦後のパリ講和会議で安全保障の観点からチェコスロヴァキアの強化を狙うフランスの要求によりドイツ人居住地域ズデーテン地方はチェコスロヴァキアの領土となっていた。
4月7日〜5月19日徐州作戦開始
徐州付近に集結した中国軍(約50万)を日本軍が南北から挟撃、包囲殲滅をねらい、中国軍の抗戦意志を喪失させようとした作戦。南北からの激戦で徐州に接近したが、中国軍は退却戦術をとったため、徐州は占領したが包囲戦は失敗に終わり、作戦目的は果たされなかった。
日本国内では動員と巨額の出費のため、近衛内閣は5月5日に国家総動員法を制定した。この法律に基づき勅令によって国民徴用令、生活必需物資統制令、価格等統制令、新聞紙掲載制限令などが定められた。経済分野のみならず、事業、文化、言論など、国民生活のすみずみにまで国家統制が及ぶことになった。
8月22日~10月27日 武漢作戦開始
10月27日 武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が陥落。国民政府は重慶へ移動。
武漢作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略した。日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。漢口、広州の占領により、中国主要都市の実質的支配が達成され、軍事的に事変を解決できると思われたが、蔣介石の抗戦意志は固く、軍事力によって屈服させる見通しはほとんどなくなった。
盧溝橋事件から始まった支那事変は、武漢・広東作戦で本格的な戦闘が終わり、戦いは小康状態になった。中国側では徹底抗戦か和平交渉かで対立が起き、その後汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争へとなっていく。
支那事変は長期化し泥沼の状態に陥った。中国は英米との連携にその解決を求め、日本はあくまで日中間による局地的解決を望んだ。米・英・仏などは国民政府への支援を強化し、援蔣ルートはベトナムのハイフォンに陸揚げし、雲南を経由して重慶に輸送された。
1939年
1939年は日米が太平洋戦争へと踏み出す、第1歩の年となった。
5月 ノモンハン事件 (~9月)
満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで勃発した両国及び支援するソ連と日本による大規模な戦闘。関東軍は大本営の方針に反し独断で戦線を拡大したが、ソ連の機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。同年8月、日本と同盟関係にあったドイツがソ連との間で独ソ不可侵条約を締結し、ソ連の極東への兵力増強が可能となったため、大本営は作戦中止を決め、9月にモスクワで停戦協定が結ばれた。
その最中の8月23日、独ソは独ソ不可侵条約を締結した。共産主義に対抗する枢軸としてドイツとの関係強化をしようとしていた平沼首相は8月28日に「「欧洲の天地は複雑怪奇」」という声明を残して内閣総辞職した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受け、宇垣一成はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している。
7月26日 米国は日米通商航海条約の破棄を通告。翌年の1月に失効
日中戦争は満州から中国本土に拡大された。これに対して、米・ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が「日本の中国侵略に抗議する」として日米通商航海条約の廃棄を通告し、1940年1月26日に失効した。条約失効によりこれ以降、米国は日本への経済・貿易制裁へのフリーハンドを得て、屑鉄・航空機用燃料などの対日輸出に様々な制限、禁止を加え始めた。米国は太平洋戦争への第1歩を踏み出したと言える。
当時日本は、石油類の75%、鉄類の49%、機械類の54%など多くの重要物資を米国からの輸入にたよっていた。それへの対応のため、日本では援蔣ルートの遮断と資源を東南アジアに求めるという南進論が強まった。
8月23日 独ソは独ソ不可侵条約を締結
独ソ不可侵条約はドイツの東方生存圏確保の第1歩はポーランドとし、先ずはドイツ・ソ連両国の相互不可侵に関する条約結び、東ヨーロッパ全体における独ソの勢力範囲の線引きが画定された。バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏に入れ、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意していた。独ソ不可侵条約締結一週間後の9月1日ドイツが宣戦布告のないままポーランドへ侵攻した。
当時、ソ連はノモンハン事件で日本と交戦中であった。独ソ不可侵条約締結によりソ連は9月15日に日本と停戦合意し、その2日後の9月17日にはポーランドへ東から侵攻した。ポーランド東半分を制圧し、さらにフィンランド・バルト三国などを併合した。独ソ両国はポーランドを分割した。
これに対しイギリス・フランスは2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかし、英仏はドイツに宣戦布告したが、すぐに援軍を派遣することなく、西ヨーロッパでは「奇妙な戦争」といわれるにらみ合いが続いた。
8月30日 阿部信行内閣成立
平沼内閣は総辞職した。昭和天皇と元老西園寺公望はこの機会を捉えて、陸軍と日独同盟路線を押し戻そうとした。だが、近衛は消極的で、木戸は反対し、結局、後継首班には陸軍の推す阿部信行陸軍大将が選ばれた。天皇は参内した阿部に「従来内治外交共に甚だ乱れたるは其の根源陸軍の不統制に在り」と断じ、「朕は自ら一線に立ちて、此の問題の解決に当たる決心なるを以て、卿之を補佐せよ」と続け、陸軍大臣には畑俊六・梅津美治郎の内から指名せよとの内意を示した。天皇自ら陸相候補者を指名するのはまさに異例の措置であった。1939年(昭和14年)8月30日阿部信行内閣が成立した。だが、畑陸相は「聖上の大臣にして我等の大臣にあらずとの恐るべき思想」が幕僚層に瀰漫していたのである。結局、畑軍政は上手く機能しなかった。
9月 ドイツポーランドへ侵攻、第2次世界大戦始まる。
1940年
1月16日 米内内閣成立。米内を天皇が推挙した。
ナチス・ドイツの攻勢に触発され、陸軍に於いて日独伊三国同盟締結を求める声が高まり、これを憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、こうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えた。昭和天皇独白録によれば、天皇は海軍大将米内光政を内大臣に自ら推挙した。天皇が特定の人物の名をあげて推挙するというのはまったく異例のことであった[3]。当時にあっては親英米派の内閣が成立した。
7月陸軍は日独同盟締結と新体制運動への善処を要求したが、米内がこれを拒否すると、畑陸相が同月16日辞職し、陸軍は後任陸相の推薦を拒否したため、内閣は総辞職し、7月22日第二次近衛内閣が成立した。天皇は戦後に、「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と悔いていたことが知られている。
4月~6月 ドイツはデンマーク、ノルウエー、蘭、仏を占領
ドイツは西部方面でも侵攻を開始した。ドイツは北極圏のスウェーデン産鉄鉱石を夏季はノルウェーのナルヴィク港から輸入していた。戦争維持のために必要な鉄鉱石確保のため4月9日、その経路であるデンマークとノルウェーに侵攻した。
5月10日、ドイツは宣戦布告なしにオランダ・ベルギーとフランスに突如大攻勢に打って出た。15日にはオランダは降伏した。これは、オランダをイギリス攻撃の基地として使用し、英仏からの同様の攻撃に対する緩衝地帯を作成し、ルール工業地帯への脅威を減らすことが目的であった。
5月 28日から6月4日までの8日間にわたって,イギリスのヨーロッパ派遣軍 22万 6000人とフランス=ベルギー軍 11万 2000人が,フランス北部のダンケルクの海岸からイギリス本土へ撤退した。
ドイツ軍は6月14日パリへ無血入城し、7月2日に対独協調のヴィシー政権が成立した。
パリ陥落を知り当時の多くの日本人は、それを世界史の大いなる転換、英米中心の自由と民主主義に基づく政治経済秩序の崩壊と、独ソを中心とする指導者原理、1党独裁、計画経済といった全体主義的世界秩序の到来を告げる、ある種の天啓のように受け止めていた。
日本にとって必要な石油、天然ゴム、鉄鉱石、ボーキサイトなどの資源の豊かな仏・英・蘭3国の植民地を獲得しようという、南進論がさらに強まった。
7月22日 第2次近衛内閣成立
陸軍は南進論者東条英機を陸軍大臣に送り込んだ。
5月20日 蘭領東インド(蘭印)と日蘭会商を開始
日本は、日中戦争の拡大と米国による日米通商航海条約の破棄を受けて、米国の対日輸出制限に対抗するため蘭領東インドの軍需資源を確保しようとした。5月20日には現地蘭印政府に会商(日蘭会商)を申し入れ、石油など重要物資13品目の輸出拡大を要請した。石油などの軍需物資の確保が日本にとって至上命令であった。交渉は続けられたが、日本の要求が過大でまとまらず、41年6月17日には打ち切られた。
7月27日 大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定
要綱の「方針」には「支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し対南方問題を解決す」とあり、第3条に「内外諸般の情勢特に有利に進展するに至らば、対南方問題解決の為武力を行使することあり」とある。ドイツの欧州での快進撃が大きく影響している。
8月1日 米国は航空用燃料、鉄・屑鉄の輸出を許可制にした
軍需品の米国からの輸入が実質的に止まり、日本は苦境に陥った。
9月23日 北部仏印に進駐。援蔣ルートを遮断した
日本はナチス・ドイツ占領下にある仏のヴィシー政府に援蒋ルート遮断のための日本軍駐屯を認めさせ、北部仏印へ進駐した。
9月26日 米国は直ちに対日屑鉄の全面禁輸をした
ドイツは9月中旬にはイギリス侵攻を無期限延期していた。
9月27日 日独伊三国同盟に調印
第2次近衛内閣は日独伊三国同盟に調印した。北部仏印進駐の4日後であった
三国同盟は米国を仮想敵国としており同国の参戦に対する抑止効果が期待された。当時はバトルオブブリテン(英独航空決戦)が熾烈化し大英帝国の崩壊は時間の問題と思われていた。日本は勝ち馬に乗ろうとしていた。 日米関係はさらに悪化した。
オランダ・フランスの敗北により、仏印及び蘭印対する戦勝国ドイツによる併合もありえ、日本は援蒋ルート遮断を名目に9月23日に北部仏印へ進駐し英領マレーや蘭印に対する南進の足掛かりを確保した。同日、対重慶和平工作(桐工作)は不調に終わり、成立させていた汪兆銘政権(南京)*を11月には正式承認する。
*汪兆銘政権:日本は国民政府内の反蔣介石派に対する工作を行い、副総裁の汪兆銘(汪精衛)を1938年12月に重慶から脱出させ、南京に迎え、40年3月、親日政権として南京国民政府を樹立させていた。汪兆銘はこれ以上抗日戦を続けると、中国はソビエト化してしまうとして日本の支援を求めた。44年11月、汪は療養中の名古屋で客死した。
欧州戦争により、英国は極東をかえりみる余裕はなく、米国はヒトラー打倒を優先するも蒋介石への援助は続けた。ソ連はノモンハン事件*後に対日宥和に向かっていた。
援蒋ルートはビルマ雲南ルートへ移り、日本は持久戦となった日中戦争を戦い抜くために、対米関係悪化により、南方の石油等の資源の獲得に迫られ、南進しかなくなっていた。
南部仏印はタイ、英領マレー、蘭領東インドへと圧力をかけられる要地であり、当時陸海軍は北部仏印進駐への米英の反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、反発を招かないという見通しを立てていた。
1941年
4月13日 日ソ中立条約調印
ドイツはイギリス上陸を阻まれ、4月にはバルカン侵攻を開始した。バルカンに勢力圏を伸ばそうとするソ連との対立を生み、スターリンは急遽日ソ中立条約を締結した。日本は南部仏印、英領マレー、蘭領東インドへの武力侵攻準備専念のために、ソ連は独ソ戦準備のために、双方の思惑により締結された。
6月17日 日蘭会商交渉は打ち切られた。蘭印からの石油等資源確保のための経済・外交交渉は終わり、武力解決しかなくなった。
6月22日 独ソ戦開始
ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻、独ソ戦が開始された。
6月25日 大本営政府連絡懇談会において南部仏印への進駐が決定された
7月2日 御前会議にて南部仏印進駐が正式に裁可された
ヴィシー政府に対して進駐を受諾させ、28日から進駐を開始した。参謀本部戦争班の日誌には「仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」と記されている。
この日裁可された「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」には「帝国は本号目的達成の為、対英米戦を辞せず」とある。
7月 25日 ルーズベルト大統領は在米日本の資産凍結令を公布。翌日から英・蘭も追随。
7月28日 仏印南部へ進駐を開始した
北部仏印進駐は支那事変の延長線上にあったが、今回の南進は、英領マレーや蘭領東インドへの南進作戦基地獲得のためであった。
南部仏印進駐により米国の態度は極めて強硬なものとなった。最後の一線を越え、米国に対日戦争への覚悟を決めさせてしまった。
8月 1日 石油の対日全面禁輸
米国は石油禁輸を発表。日本への石油輸出は完全に停止された。英・蘭も米に同調した。中国を加えたABCD包囲網が構築された。
米国の強硬姿勢は日本軍部にとって予想外であった。南部仏印もドイツ占領下のフランス領であり、アメリカの権益とは関係がないとして、参謀本部戦争班の日誌には「仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」と記されている。当時の石油備蓄は一年半分しかなく、海軍内では石油欠乏状態の中で米国との戦争になるなら、早期開戦論を主張するようになった。
8月、近衛首相はルーズベルト大統領との直接会談を企図する。会談で日米間の合意を先に形成し、その会談の場から直接天皇の裁可を求め、陸海軍の頭越しに解決しようとした。米国は先に事務方の交渉で実質上の合意形成をするべきであると10月2日に回答したため、近衛の目論見は外れた。
その後も日本と米国の外交・経済交渉は平行線をたどった。米国は兵器の大増産体制確立までの時間稼ぎであった。この後の米国は、1943~44年に失業率1.9~1.2%という超完全雇用を達成した。米国における大恐慌は第二次世界大戦により解消したと言われている。
9月6日 御前会議で対米(英蘭)開戦を決定した
決定された「帝国国策遂行要領」には「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」とある。なお、この決定の前日から当日までの天皇による軍部独走への最後の抵抗の経緯については、詳細を「2—4戦争に反対し続け、さらにはポツダム宣言を積極的に受け入れようとした昭和天皇」をぜひ参照下さい。
10月2日 ハル国務長官が「ハル四原則」の確認と、中国大陸およびフランス領インドシナからの撤退を求める覚書を手交した。
東條陸相は強硬姿勢を変えず、加えてゾルゲ事件*の捜査が進展し、近衛の側近である尾崎秀実が逮捕され、ゾルゲ事件に近衛自身までもが関与しているのではないかとの観測すら窺われるに至って、10月16日に近衛は総辞職した。第3次近衛内閣は約3か月で終わった。
後任について、内大臣木戸幸一は対米開戦へ最強硬派の陸軍全体を抑えられるのは陸相東條しかいない、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であり昭和天皇の意を汲んで戦争回避に動くであろう、と木戸が逆転的発想をして奏薦したと言われている。
ゾルゲ事件:ドイツの新聞社特派員の肩書で来日。近衛内閣のブレーン尾崎秀実らの協力を得て、
日独両国の機密情報をソ連に流したスパイ事件。2人は逮捕され処刑された。
10月18日 東条内閣成立
東條に対する大命降下の際に、昭和天皇から9月6日の「帝国国策遂行要領」の「白紙還元の御諚」が言い渡され、一旦白紙から再検討することとなったため、開戦決意の期限もとりあえずは消滅した形となった。
11月5日 御前会議で「帝国国策遂行要領」(緩和案甲案乙案含む)を再決定
「武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す」とした。
東篠は対米交渉緩和案を示して交渉したが米国は応じず。時すでに遅しであった。
軍部も政府も米国との国力の差は自覚していた。開戦時の米国の国民総生産は日本の11倍、あらゆる工業の基礎となる鋼材は日本の17倍、石油は日本の721倍もあった。軍部はこうした絶対的な差を克服できるのは日本人の精神力、大和魂だと危機を扇動した。また軍部の判断では、一撃講和が可能と希望的観測をし、石油の備蓄量などからも開戦を先へ延ばすべきではない、となっていた。
11月23日 南雲機動艦隊が択捉島単冠湾(ひとかっぷわん)に集結
11月26日 南雲機動艦隊8時ハワイへ向け出港
11月26日 米国はハル・ノート提案(現地時間26日17時頃、日本時間27日7時頃)
この提案は、日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石政権以外の政権の承諾拒否などを内容とするもので、アジアの状態を満州事変前に戻せという内容*であった。日本側はこれをアメリカの最後通告とみなし、12月1日に開戦を決定した。
*ハル・ノートにおける満州国の扱いについて
ハル・ノートの「中国」には満州は含まれてはいなかった。ハル国務長官にとって満州問題は優先順位が低く、末期日米交渉の争点にもなかった。ハル・ノートの原案であるモーゲンソー案においても満州は中国とは別の地域を意味しており、11月22日案・11月24日案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった。ハルも野村大使も「中国」という言葉に満州を含む意味には使っておらず、米国国務省極東部内の認識も同様で、それが交渉現場の意識であった。ただし、11月25日のハル・ノート暫定協定最終案では「(満州を除く)」という挿入句が外されていた。24日から25日にかけての間に、このような修正がなされた理由は現在でも不明である。
米国側では満州を含んでいなかったようだが、日本側は中国本土および仏領インドシナからの撤退要求を絶対に容認できず、陸海軍の主戦派にとっては、開戦決意を最終的に固める上でも、また国論の一致に貢献させる意味でも、このハル・ノートを「天佑」とした。 12月1日 御前会議で12月8日の米英蘭との開戦を決定した
12月2日 大本営から機動艦隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発信された
12月8日 陸軍は午前2時英領マレー半島のコタバルへ上陸を開始。
海軍は午前3時19分真珠湾攻撃開始(いずれも日本時間)。
この奇襲攻撃により英国首相ウインストン・チャーチルは米国の参戦に確信を得て、「我々は戦争に勝った!」と言わせしめた。また、真珠湾攻撃は航空機により、米国太平洋艦隊のアリゾナ、オクラホマなど戦艦4隻を撃沈するなど大損害を与えた。翌々日の12月10日にはマレー沖海戦にて、日本の陸上攻撃機が英国東洋艦隊主力の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。まさに大艦巨砲時代の終焉*を物語っていた。この2つの緒戦の大勝利で日本国民は舞い上がり、チャーチルとは真逆の、日本は勝てると錯覚して大勝利に酔いしれた。
一方でこの頃、ドイツ軍は冬将軍もあってモスクワ攻略を阻まれ、12月6日にはソ連軍は反撃を開始していた。
*戦艦大和は1937年11月に起工し、真珠湾攻撃とマレー沖海戦直後の12月16日に就役している。武蔵は1938年3月に起工し、1942年8月に就役。史上最大の大和も武蔵も、艦隊決戦などはなく、真珠湾と同じく航空母艦からの攻撃機により2隻とも撃沈された。
その後も中国戦線では一撃講和は実現せず、さらなる一撃講和作戦へと進み続け、戦線は東アジア全域に拡大し長期化した。2度の駐米経験から、米国との国力の違いをよく知り、誰よりも日米戦争に反対した山本五十六でさえ「初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません」として、一撃講和にまだ大きな期待をして真珠湾を奇襲攻撃した。山本の言う通り、「初めの半年」後のミッドウェィ海戦が攻守の転換点となった。
以降、第二次世界大戦終戦までの概略を以下に記す。
1942年
連合軍の反攻が始まる
4月までに日本は、フィリピン、インドシナ半島、シンガポール、蘭印(インドネシア)を占領した。
6月 米軍は太平洋での日本の進撃をミッドウェイ島で阻止。日本は主力空母四隻を失う。
11月 ソ連がスターリングラードで反撃開始。
1943年
2月 ガダルカナル島より日本軍撤退。
2月 スターリングラードで現地ドイツ軍降伏。
7月 米英軍がシチリア島に上陸。ムッソリーニ失脚。
1944年
6月 連合軍ノルマンディー上陸
日米マリアナ沖海戦で日本大敗。
8月 連合軍パリに入城
10月 米軍フィリピンに上陸。
1945年
4月 ソ連軍がベルリンを包囲。ヒトラー自殺。
5月 ドイツ降伏。
5月 米軍が沖縄占領
8月 米国が広島・長崎に原爆を投下。ソビエトが満州に侵攻
8月14日 日本が無条件降伏し、第二次世界大戦が終結した。
日本は、一撃講和が不可能となり、戦線拡大により劣勢となっていった。それを精神主義で補い、冷静な科学的思考が軍全体に欠けていった。精神主義の極致と言える特攻、本土決戦、一億玉砕とまでになっていった。もし、大本営で作成された「決号作戦計画」が実行に移されたなら、日本本土は沖縄と同様の戦場と化し、原爆が投下され、連合軍は東京へと迫る。本土と分断された外地軍はさらに混乱を極める。
・・・・日本は敗戦を迎えた。
ボルネオ島の油田地帯占領
ミッドウェイ海戦で沈んだ飛龍(左)とヨークタウン(右)
日本は負けて初めて戦争を終われる国であった。真にそうであった。
さらに、敗けて初めて生まれ変われる国であった。それは1945年の敗戦だけではない。幕末の長州が下関戦争に敗北して攘夷から開国に転じたように、薩英戦争により攘夷の不可能を知り、英国との親善関係を樹立した薩摩など、敗けて初めて目を開かれたのだ。極東の島国という地政学的な要因もあるが、視野が狭いという国民性が成したものであろう。
そして、敗戦が今日の日本をもたらした。日本人にとって完敗して良かったと言える。
ここで筆者は最後に2つのことを付け加えたい。
その1、 終戦には仲介者が必要である。
戦争を始めるときは必ず、どう終戦するかを考えておかねばならない。それは軍よりも政治の責任である。なぜなら戦争を終わるには仲介者が必要だからだ。
大国ロシア帝国との開戦決定を受けて、元老・伊藤博文(枢密院議長)は、以前伊藤内閣で農商務大臣、司法大臣であったハーバード大学卒の金子堅太郎を呼び、急ぎ渡米して金子が面識のあったハーバード大学OBのセオドア・ルーズベルト大統領に常時接触することを命じた。将来講和の調停を依頼するためだと聞かされた。
この時日本は開戦に際して終戦を深く考えていたのである。政治・外交と統帥・軍部が協力していた。そのリーダーシップは伊藤博文が執った。しかしこれ以降は、いつどのようにして戦争を終わらせるかを全く考えずに、戦争は進められた。
満州事変も支那事変においても、日本の政治家も軍部も「戦争」を始めたのではなく、全面戦争ではない「事変」と認識し、また「暴支膺懲」のため、「一撃講和」のための武力行使と認識していた。
日本の中国における領土拡大手段であった満州事変(1931年~)、支那事変(1937年~)を、英米も国際連盟もそれを認めず、講和を仲介する国はなかった。日本もワシントン会議の九カ国条約、パリ不戦条約に違反していることを認識し、自ら孤立化していった。
戦争に反対し続けていた昭和天皇は、昭和天皇実録によれば、東篠内閣成立直前の10月13日、天皇は内大臣木戸幸一に「万一開戦となる場合には、・・・戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王庁との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある旨を述べられ」ている。追い込まれた指導部にあって天皇の慧眼はまだ生きていた。残念ながらバチカンは重慶政府の使節を受け入れた。その後、遂に行き着いた先が、太平洋戦争末期の1945年6月にソ連へ和平工作を要請したことである。7月近衛公のモスクワ派遣まで決めたが、ソ連は既に参戦を決めており、8月8日には対日宣戦布告した。
当時の外相・東郷は後日「この時ソ連政府当局が日本に対し、すでに開戦の決意を為して、佐藤大使との会見および近衛公の入国を肯じなかったとまでは、想像し得なかったのは、甚だ迂闊の次第であった」と述懐している。うかつで済む問題ではない。ソ連に講和を頼むなど、情報判断能力として、これでは日本は戦争に勝てるとは思えない。既にナチス・ドイツは5月には消滅していた。
その2、 開戦前、日米戦争を想定した「総力戦机上演習」において完敗の結論。
太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)8月、内閣総理大臣直轄の「総力戦研究所*」において日米戦争を想定した「総力戦机上演習」が行われた。同研究所は軍部・官庁・民間から選りすぐりの若手エリートを集めていた。その机上演習での結論は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。なんとこれはその後の現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。この机上演習への参加者は、各官庁・陸海軍・民間などから広く選抜された、官僚文官22名・軍人5名・民間人8名の総勢35名からなる次世代を担う若手エリート達であった。
この結論は当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下政府、統帥部関係者の前で報告されている。しかし、この報告会の最後に東條陸相は参列者の意見として以下のように述べたという。「これはあくまでも机上の演習でありまして、實際の戰争といふものは君達が考へているやうな物では無いのであります。日露戰争でわが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つたのであります。・・・・勝てる戰争だからと思つてやつたのではなかつた。戰といふものは計畫通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでもその意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬといふことであります。」と。
一撃講和思想の連続で深みにはまり込み続け、もはや講和のためには米国が了解するまで後ずさりを続けるしかなかった。米国は日本の実力を承知しており、後ずさり交渉ではなく、中国およびインドシナからの全面撤退、中華民国国民政府以外のいかなる政権をも認めないなど、アジアの状態を満州事変前に戻せという最後通告を発した。スタートラインまでの後ずさりを要求したのだ。東條は、それは受け入れることはできず12月1日に開戦を決定した。もはやアメリカのペースに巻き込まれていた。
参考:総力戦研究所については猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」を参照下さい。
日本は戦争に敗けて初めて戦いを終われる国であった。敗けて初めて生まれ変われる国であった。
それは1945年の敗戦だけではない。幕末の長州が下関戦争に敗北して攘夷から開国に転じたように、薩英戦争により攘夷の不可能を知り、英国との親善関係を樹立した薩摩など、敗けて初めて目を開かれたのだ。極東の島国という地政学的な要因もあるが、視野が狭いという国民性が成したものであろう。
以 上