2.戦争への流れを押し止めることができた分岐点はあったのか、それは何時か!

    

                 分岐点1 当初の目的(利益線・朝鮮半島の確保)を達成した日清戦争の後

      

                 分岐点2 日露戦争で何とか講和に持ち込めた時

              

                 分岐点3 1次世界大戦後五大国になった時 世界の厭戦気分の流れと大正デモ

                      クラシーの流れの中で  1920年代(大正9年~昭和4年) 

                               

           分岐点4  周到に準備された満州事変をなぜ事前に止められなかったのか

 

           分岐点5  天皇は「統帥最高令」発動により熱河作戦を阻止しようとした 

   

 

 

 日清戦争から満州事変までの間の分岐点を調べてみた。この時期までは、まだ戦争回避の可能性が大きかったと思われる。しかし、それ以降は、もはや戦争への奔流を押し止められず、負けると分かっている戦争へと突き進んでいった。

 

  

 分岐点 1 当初の目的(利益線・朝鮮半島の確保)を達成した日清戦争の後

 

      ○日清戦争  1894年(明治27年)7月~1895年4月(日清講和(下関)条約調印)

 

日清戦争は当初の目的である利益線・朝鮮半島の確保を達成したのであるから、ここで山縣有朋や伊藤博文という強力なリーダーが対外協調路線へと転換する可能性は充分あった。戦後には遼東半島などでロシアほか列強との対立が起こるであろうことは予測されていた。従って矛を収めることは充分可能であったはずだ。

 

しかし、講和条約締結6日後に突き付けられた三国干渉は、それを考えるいとまもなく遼東半島を奪い去った。山縣有朋も伊藤博文もそして明治政府も、武士のDNAを引き継いだ武士集団であり武士政権であった。突きつけられた三国干渉に対して、その屈辱感は如何ばかりであったろうか。

 

日清戦争の始まる前の国内世論はどうであったのか。

 

内閣総理大臣・山縣有朋は1890年(明治23年)11月の第一回帝国議会で「利益線」という概念を述べている。それは征韓論を近代化した「主権線と利益線」*という概念であった。

 

     *利益線:主権線は日本の国土や領土。利益線は主権線の安全に大きな影響を与える隣接地帯の

                     こと。

 

山縣は「我が邦利益線の焦点は実に朝鮮にあり」、日本の主権を守るためには利益線・朝鮮半島の確保が必要であると明確に説いた。この山縣の利益線論は多くの賛同を得ていった。

第一回帝国議会衆議院においては、民党*が議席の過半数の171議席(議席数300)を占めていた。当時は直接国税15円以上の男性納税者(25歳以上)にしか選挙権・被選挙権を認めておらず、議員の多くが地主階級であった。彼らは地租軽減、反政府の立場をとってはいたが、国としての最優先事項は不平等条約の改正であり、国権の確立がまず先という意識であった。従って、外交問題に関しては山縣有朋や福沢諭吉らと差異はあまりなかった。

当時外相の陸奥宗光は、条約改正を達成するためには、日本の進歩や開化を欧米にわからせ、日本がアジアの中でも特別な文明、軍事力も備わった国であることを、列強の目に具体的に見せる必要があるとしている。そして、朝鮮に対しての「開戦の口実を作るべし」と述べている。

 

 *民 党:自由民権運動を推進してきた立憲自由党や立憲改進党などの民権派各党の総称

 

福沢諭吉も内村鑑三もこの戦争を支持した。福沢は以前(1885年(明治18年)316日の)「時事新報」社説で「脱亜論」を主張している。朝鮮の改革は、朝鮮の内部勢力ではもう無理で、列強と同様武力で中国を討ち、朝鮮に進出するしかないとしている。開戦直後の1894年(明治27年)7月29日の「時事新報」では、「日清の戦争は文野(ぶんや)の戦争なり」と題する社説を掲載した。「文野」とは「文明」と「野蛮」のことで、この戦争を「文明開化の進歩をはかる」日本と、「進歩を妨げんとする野蛮な」清国との戦いと位置づけている。また11月には朝鮮に対しても、「文明流」の改革のためには「脅迫」を用いざるを得ず、「国務の実権」を日本が握るべきだとする社説を載せている。

 反戦主義者として知られる内村鑑三ですら、この時点では同様の認識だった。1894年(明治27年)9月、内村は「日清戦争の義」により、「我々は信じる、日清戦争は我々にとっては実に義戦である」。また日本は「東洋における進歩主義の戦士」で、中国は「進歩の大敵」だと、欧米人向けに訴える論文を英語で雑誌に発表した。しかし、その後内村は、日清戦争後に日本が清に領土割譲と賠償金を求めたのを見て幻滅し、日露戦争では反戦の姿勢を貫くこととなった。

 

当時政府は、強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力の拡張を主張していた対外強硬論者へ対応する必要があった。なぜなら1893年(明治26年)末の第五回帝国議会において「対外硬六派」と呼ばれる6党派連合が成立し、議員数にして175名と議席の過半数を占める勢力となっていたのだ。六派は1894年(明治27年)に入ると、「対外硬」「対外強硬主義」をスローガンとして清国への早期開戦を主張していた。

次第に日本国内では、清韓の宗属関係をなくすためには清を朝鮮半島から排除すべきという論理が、急速に国民の中に浸透していった。そのような情勢の中で、1892年(明治25年)発足した第2次伊藤博文内閣は、政争に巻き込まれ、解散が相次ぐ中で、日清戦争へと突入していく。

 

以上のような状況下で初めての対外戦争であり、廃藩置県以来23年、「日本国民」として一気に纏まり、日本の近代以降の戦争の中で、日清戦争は非戦論、反戦論が起こらなかった唯一の戦争であった。国民は連戦連勝により熱狂した。

 

1894年に東学党の乱が発生した。清は朝鮮政府の要請を受けて出兵した。日本も公使館警護と在留邦人保護を名目に67日、清に事前通知の上派兵し、首都漢城(現ソウル)近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案したが、清はこれを拒否した。716日、懸案であった日英通商航海条約*が調印され、治外法権の撤廃に成功した。伊藤内閣からみて開戦の大きな政治的障害がなくなった。720日、大島駐朝公使は朝鮮政府に、朝鮮の「自主独立を侵害」する清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)、および朝鮮の要請に応じて駐留する清国軍の撤退について3日以内に回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐するとの含意があった。ここから出兵の目的は、「公使館と居留民保護」から、本来の目的であった「朝鮮の自立」と、そのための「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は、国内の対外強硬論を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵することが難しい状況にあった。 

22日に届いた朝鮮政府の回答は、1)改革は自主的に行う、2)乱が治まったので日清両軍の撤兵、であった。日本側はもはやこれまでとして、723日に混成第九旅団が漢城に向かい、朝鮮王宮を攻撃、占領した。日本は国王高宗を手中にし、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた。また新政権に対し牙山の清軍掃討を日本に依頼させた。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓・牙山の戦いが行われた後、81日に日清両国が宣戦布告をした。日本の『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。清国の日本への宣戦の詔勅では、朝鮮は清の直轄領であることは昔から広く知られているとした。

 

    * 日英通商航海条約:安政の五か国条約として結ばれた不平等条約の第1次条約改定。

                         英国はロシアの南下に対抗するため、日本との関係強化を図った。先ずは治外法権の

                                           撤廃に応じた。なお、関税自主権の回復(第2次条約改定)は1911年まで待たね

                          ならなかった。

  

  915日、日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち、17日に連合艦隊は北洋艦隊と黄海海戦を戦い、制海権を獲得した。ここまで日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、102425日に日本軍は鴨緑江を渡って清国内(南満州)へ侵攻し、1119日には旅順を占領した。次の作戦目標である、首都北京を陥落させる直隷決戦を開始することは清国との全面戦争を意味し、伊藤博文は限定戦争にとどめ置くために、清国北洋艦隊の撃滅と、征台の役以来曖昧なままとなっている台湾の占領を提議し、受け入れられた。冬を越して1895年1月末、日本海軍は北洋艦隊の拠点、山東半島の威海衛を攻撃、陸軍もに上陸して陸上からも攻撃した。22日には威海衛軍港陸岸を占領、12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに遼陽平原の牛荘、遼東半島西北部の営口などを占領した。戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、李鴻章が下関会談で伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じた。この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、326日には台湾に付属する澎湖諸島を占領した。417日に下関の春帆楼で日清講和条約が調印された。下関講和条約の要旨は略次のごとしである。

 

  1.朝鮮国の完全無欠な自主独立の国であることを承認する (第一条)

  2.遼東半島、台湾、澎湖列島を永遠に割与する(第二・三条)

  3.軍事賠償金平銀2億両(邦貨約3億円)を支払う(第四条)

   4沙市、重慶、蘇州、杭州の開市。(第六条)

 

 列強と清との通商条約には最恵国待遇条項が含まれており、4項の開市はそのまま列強にも対等に適用されるものとなる。列強にとって日本の勝利は、戦わずして貿易上の利益を得ることになる。なお、賠償金約3億円は、当時の日本の国家予算の約3倍であった。  

 

 

日本にとっては望んでいた朝鮮、加えて台湾などの植民地と遼東半島の権益まで、そして莫大な賠償金を得て、もう充分であったはずだ。この時点からは清との、またロシア、英国との協調外交路線へ舵をきる最も可能性のあった時ではあった。

が、しかし、講和条約調印6日後、突然三国干渉が突き付けられる。露・仏・独3国の駐日公使が外務省を訪れ、遼東半島の放棄を勧告した。小国日本としては露・仏・独という当時の大国には対抗することができず、加えて英米が局外中立を宣言したため、54日に日本はやむなく勧告を受諾し、遼東半島を清国に還付した。日本の政治家たちは、国力からして受諾せざるを得ないことを理解したが、国民は政府の弱腰に憤慨した。この国民の怒りを抑えるために、明治天皇はわざわざ「遼東還付の詔勅」*を出して、国民の自制を求めたほどであった。

     

       遼東還付の詔勅:明治天皇は510日、遼東還付の詔勅にて国民に三国干渉受諾の趣旨を説いた。

                  「大局ニ顧ミ、寛洪(寛大さ)以テ事ヲ処スルモ、帝国ノ光栄ト威厳トニ於テ、

                    毀損スル所アルヲ見ズ」と。

 

 

三国干渉は日本国民の意識に大きな影響を与えた。徳富蘇峰は民権的な思想の持主であったが、三国干渉を境に国権論者に転換していく。欧州の列強は、日本が中国での植民地獲得競争への新規参入を許さなかったのである。血を流して得たものを、政府は弱腰でそれを勝手に返還してしまったと国民は憤慨した。政府よりも軍へと近づいていく第1歩となった。

 

三国干渉が無ければ、ここまでとして、その後の戦争へと進むのは止められた可能性が極めて濃かった。しかし残念ながら三国干渉はその芽をつぶしてしまった。

 

その後、列強の中国への侵出を見せつけられるにつれて、血を流した日本が、それを横目で見るだけでは済まなくなっていった。

 

               

 

  小国日本が大国清を破る  講和交渉が行われた春帆楼   遼東半島還付条約

 

 

 

     分岐点1 当初の目的(利益線・朝鮮半島の確保)を達成した日清戦争の後 

     結 論: 三国干渉なかりせば、ここで矛を収めていたはずだ! 

  

 

                                       以 上 

  

 

 

 分岐点2  日露戦争で何とか講和に持ち込めた時

 

     日清戦争18947月~18954月(約9カ月間)

    日露戦争19042月~19059月(約19カ月間)

 

    伊藤博文暗殺    1909年(明治42年)1026日 満州・ハルピンにて

 

  日露戦争での戦死者は85,000人、日清戦争時は約13,000人であり、戦費は約20億円(現在の約26000億円に相当)であった。当時の日本の財政(1905年度の政府歳入:約4億円)からすれば極めて重い負担であり、そのほとんどを国内外からの借入(公債)によってまかなった。日清戦争では賠償金2億両(約3.1億円)を得たが、日露戦争において賠償金は得られなかった。それでも伊藤博文は・・・・。 

 

1905年(明治38年)9月、日露戦争後のポーツマス講和条約における日本とロシアの合意事項は次の通りである。

 

     1.日本の韓国(大韓帝国)に対する保護権を認める。

     2.日本に遼東半島南部の租借権を譲渡する。

     3.日本に南満州の鉄道ほかの租借権を譲渡する。

     4.南樺太(南サハリン)を日本に割譲する。

     5.沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権を日本に譲渡する。

 

これらの合意を受けて、

1.に関して、日本は韓国に対して(日露戦争中の第1次に続き)戦後の1905年11月に第2次日韓協約を締結して韓国保護国化を進め、同年12月には統監府を設置して、日本政府の代表者たる統監が外交権を掌握、朝鮮を保護国とした。初代韓国統監には伊藤博文が就任した。その後は1910年に至り韓国を併合した。このことは島国であった日本が、中国やロシアと直接接する朝鮮半島を日本国土に編入し、ユーラシア大陸に地続きの国土を持ったことになる。これは大きな変化であった。

 

2.に関して、条約上日本が認められた権益は旅順・大連を含む遼東半島先端部の狭い租借地(日本が関東州と名づけた鳥取県とほぼ同じ面積)と旅順-長春間の南満州鉄道及びその沿線の細長い付属地だけであった。日本はこれ以外にも新たな要求を付け加えて清国と190512月、満州善後条約を結びそれを確定した。日本はこの租借地の統治のため19059月に関東総督府を設置した。19069月、軍政から民政へ移行して関東都督府となった。

 

日露戦争に至る事前の交渉時には、朝鮮における日本の優越権と満州におけるロシアの優越権を承認しあうという「満韓交換論」を日本政府は示していた。日本にとっては朝鮮確保が最優先であったのだ。ポーツマス条約では朝鮮半島を手に入れるという本来の目標を達成したのみならず、加えてロシアの満州進出の遺産までを継承した。しかし、日清戦争とは比較にならない多くの犠牲者や膨大な対外債務を含む戦費を支出した。にも拘らず賠償金が得られなかったのである。

戦時においては当然ではあるが、いかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にした政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いにして、戦争に対する国民の期待を煽った。ロシアに勝利したものの日本の国力が戦争により疲弊しきっていたという実情を国民は知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚していた。全国的な講和反対運動が暴徒化し、日比谷焼打ち事件が起き、内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが焼き討ちされた。戒厳令が敷かれ、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。

 

日本の勝利を受けて各国は、在東京の公使館を、1905年の英国に始まり06年には米・仏・独なども大使館に格上げした。日本は列国とならんだとして、「一等国」になったと自称するようになった。しかし、条約改定の達成、関税自主権の回復は1911年とまだまだ先であった。   

 

 

      2枚は伊藤博文          2枚は山縣有朋   

 

 

パノラマ館には旗艦ペトロポーロスク号とあるが、旗艦ペトロパブロフスクと思われる。右端写真は旅順港攻撃時に敷設された機雷により同艦は413日に爆沈する。

 

  

 

 本題に戻ろう。「日露戦争で何とか講和に持ち込めた時」に協調外交路線へと分岐点をなぜ曲がれなかったのか? 

 

日露戦争(~19059月)後、関東州と長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)を防衛するため、19059月、関東総督府が設置され(遼陽)、関東総督には大島義昌大将(関東総督190510月~19069月、関東都督19069月~19124)が任命された。大島は排他的な軍政を実施した。市場の門戸開放を主張する英米にとって、南満州を引き続き日本の軍政地域にしようとしているかに見え、強く反発した。そもそも日露戦争中日本は世界に向かって、満州における機会均等・門戸開放主義をとることを声明してきた。ロシアの満州における独占に反対し、その門戸開放のために英米の協力を得てロシアと戦ったのである。

満州に居座ろうとする現地軍に対して、英米は19063月、文書を西園寺首相兼外相へ送りつけた。「関東半島その他の満州全般における各種の官憲に対し、至急訓令を発せられ、・・・」とあり、門戸開放の早期実現・実施を要求する辛辣な文書であった。政府へ大きな影響力のある京城の伊藤博文韓国統監にも、満州の日本軍による門戸閉鎖はロシアの占領当時より厳しいことを非難し、「もしこのままでゆけば、日本は与国(友邦)の同情を失う」と明確な警告を送りつけている。英米の抗議を受けて、日本の国際的地位についてもっとも鋭い洞察力を持っていた伊藤博文は、西園寺首相主催で522日に「満州問題に関する協議会」を開催させた。この重大会議には、韓国統監府統監伊藤博文本人、枢密院議長山縣有朋、元帥大山巌、内閣総理大臣西園寺公望、枢密顧問官松方正義、伯爵井上馨、陸軍大臣寺内正毅、海軍大臣斎藤実、大蔵大臣阪谷芳郎、外務大臣林董、陸軍大将桂太郎、海軍大将山本権兵衛、参謀総長児玉源太郎の13名が出席した。伊藤と児玉の激論の末、関東総督府を軍政から平時組織に戻し、軍政署を順次廃止することになった。9月1日、関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組されて関東都督府になった。関東都督府は関東州の統治と防備を受け持ったが、関東総督府(軍政)時代とは異なり、政務や軍事の各権能について外務大臣・陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監らの監督を受けることとされた。

元老・伊藤博文が元老・山縣有朋の協力を得て、軍部の独走を見事に押さえたのである。元老が健在な間は、特に伊藤が健在の間は軍部の横暴は制御されていた。

 

なお、大島義昌大将にとって内閣総理大臣の安倍晋三は玄孫にあたる(安倍の父方の祖母・本堂静子が大島の孫娘)。

 

一方、朝鮮では、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した日本が190512月、漢城(現ソウル)に韓国統監府を設置した。初代統監に任命された伊藤博文は内閣総理大臣を4度も務めた実力政治家であった。伊藤博文を統監に任命した背景には、韓国は財政破綻に陥り、不正と腐敗が蔓延しており、改革の必要があったからである。

韓国統監は韓国に駐剳する韓国守備軍の司令官に対する指揮権を有していた。そのため文官の伊藤が就任して指揮権を持つことには現地司令官長谷川好道や元老・山縣有朋が難色を示したが、明治39年(1906年)1月、明治天皇は自ら勅語を与えて伊藤の権限を認めた。これにより大日本帝国憲法下で唯一文官が軍の指揮権を持つ職となった。なお、伊藤、曾禰と文官の統監が2代続いた後は、後の朝鮮総督も含めていずれも武官が就任している。

 

伊藤は朝鮮こそが日本の利益線であり朝鮮を確実に確保することが最優先と考えていた。伊藤は日露戦争前に満韓交換論として、ロシアの満州支配を認める代わりに日本の朝鮮支配を認めさせるという構想を持っていた。その考えは日露戦争後も変わらず、初代韓国統監を引き受けている。日本とともに、韓国をロシアに対抗しうる国へと早急に近代化させるため、伊藤は様々な施策をおこなった。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥とは、しばしば対立した。また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。しかし、朝鮮独立運動である義兵闘争は1909年にかけて全土に広がり、さらに一般民衆も加わって最盛期を迎えた。伊藤は保護国状態ではもはや無理で、併合したほうが改革できると考えるに至った。韓国併合が決まり(併合は19108月)、伊藤は19096月、統監を辞職し、4度目の枢密院議長に就任した。

韓国を併合すれば日本領・朝鮮の利益線は満州となる。そこで伊藤は、今後の満州への対応について調査するため、現地視察に行くことにした。その時ちょうど、ロシア大蔵大臣ココツェフが東清鉄道視察のためにハルピンに来るという情報が入り、伊藤はハルピンでココツェフと会談し、ロシアの動向を知ろうとした。19091026日、ハルピン駅で出迎えのココツェフと挨拶を交わした直後に、朝鮮の独立運動家安重根に伊藤は射殺された。この時、伊藤68歳、山縣は71歳であった。 

 

  晩年の伊藤博文   安重根

 

 

伊藤博文と山縣有朋は同じ長州出身で、松下村塾出身者である。維新後は行政官と軍人に分かれ、元老中の元老である2人の影響力は極めて大であった。

 

 伊藤が生きていれば、満州にどう対応したであろうか。

吉田松陰から「周旋(政治)の才あり」とされた伊藤、維新後は行政官であった伊藤、国際協調重視派の伊藤、日清戦争開戦より清国と共同で朝鮮の内政改革を進めようとした伊藤、日清戦争において、直隷(北京・天津)決戦を行なう作戦を、征台の役以降も曖昧なままになっていた台湾の占領に切り替えさせた伊藤、日露戦の開戦決定時に金子堅太郎に急ぎ渡米し金子の同窓であり後に講和を仲介するセオドア・ルーズべルト大統領に常時接触することを命じた伊藤、大陸への膨張を企図し韓国の直轄を急いだ山縣有朋や軍閥としばしば対立していた伊藤・・・・。

 

伊藤亡き後は山縣の一人天下となり、山縣は軍・政界の頂点を極めた。山縣を中心に、ポーツマス条約で得た旅順・大連を含む遼東半島南部の租借権、長春―旅順間の鉄道とその沿線などをどう堅持し、かつ明確化するかへと進む。

 

山縣は、伊藤が暗殺された1909年(明治42年)の意見書において「二十億の資財と二十余万の死傷を以て獲得したる所の戦利品」と述べている。山縣の「日本軍閥の祖」との異名をとった立場では、戦争から遠ざかる対外協調路線の可能性は低いが、一方の伊藤は政治家として軍部独走に歯止めをかける可能性のあった唯一のリーダーではなかったか。伊藤が健在ならば、まだまだ軍部独走に歯止めをかけていたに違いない。

 

伊藤の暗殺は日本の針路を、軍部独走への道を可能にしたと言っても良い。暗殺なかりせば、山縣より3歳若い伊藤は大きく日本を変える、戦争への道を変える可能性があったのではないか。

伊藤の暗殺は日本にとって重大な影響をもたらした分岐点をつくったことになる。

 

  

      分岐点2 日露戦争で何とか講和に持ち込めた時

      結 論  伊藤博文暗殺が日本をして拡大路線へと走らせた!

 

 

                                  以  上

 

 

 

 分岐点3 第一次世界大戦後五大国になった時、世界の厭戦気分の流れと大正

                   デモクラシーの流れの中で  1920年代(大正9年~昭和4年) 

   

 

   第一次世界大戦は19147月から191811月までの43カ月間、計25カ国によりヨーロッパを主戦場として戦われた、人類最初の世界戦争であり、長期間の国家を挙げての総力戦であった。戦死者は802万人、民間人死者は664万人とされている。この大戦により、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国という中世以来の専制君主制国家が崩壊し、民族自決により多くの独立国が生まれていく。また、英国は戦勝国ではあったが疲弊し、植民地でも反英独立運動が活発となり、「大英帝国」の繁栄は終わり、アメリカの時代へと移る。そして世界平和維持と国際協調を目的として国際連盟が動きだす。大戦により世界は大きく転換した。

 

  第一次世界大戦の終わった後のこの分岐点・1920年代は、戦争回避への対外協調路線に舵を切るには絶好の機会であった。日露戦争以降多くの懸案があった対中国問題は「対華二十一か条要求」で方を付け、五大国と位置づけられてワシントン条約にも調印した。世界は厭戦気分が流れ軍縮へと向かっていた。

 

 にもかかわらず、日本はなぜここで対外協調・平和路線に舵が切れなかったのか? その理由を探った。

  

  第一次世界大戦後の19191月に開催されたパリ講和会議に世界33カ国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟設立を含めた新たな国際体制構築についても討議された。その中にあって日本が五大国になったのは、最重要問題については日、英、米、仏、伊の全権で構成される十人委員会で協議することになった時からである。翌年、国際連盟発足により日本は常任理事国となり、「武士道」の著者・新渡戸稲造(東大教授)は連盟事務次長に7年間就任している。 

 

 日本の第一次世界大戦への参戦は、日露協約でロシアとは朝鮮及び外蒙古、南北満州及び内蒙古の権益を互いに認め合っており、満州・華北地区で列強の脅威が残るのはドイツによる山東半島の膠州湾租借地及び膠済鉄道と青島の東洋艦隊のみとなっていたからである。膠州・青島と済南を結ぶ膠済鉄道は天津、北京へ向かう軍事上の重要鉄道であった。無論ドイツ排除の後は、その空白を日本が埋めることに目的はあった。

 1907年から1917年までの日露協約締結の10年間は、ロシアの南進が止まった時期であり、日本にとって江戸時代以来の天敵が居なくなった時期ではあった。

  

      参考:「ポーツマス条約で得たものから対華十一か条要求まで」8 をご覧下さい。  

      参考:「日露協約は日露軍事同盟であった」8 をご覧下さい。

 

 

 「1920年代」の年譜は以下のとおりである。

  

       大正デモクラシーの流れの中、モガ(モダンガール)

 

 

1914年 第一次世界大戦日本参戦(青島・南洋諸島占領) 

1915年 対華二十一か条要求 日本は大戦好景気 

 

1917年 米国参戦 連合国の要請により日本は特務艦隊を地中海へ派遣 

1918年 シベリア出兵 第1次世界大戦11月休戦 

1919年 パリ講和会議 ヴェルサイユにて講和条約調印 

 

1920年 国際連盟設立

1921年 11月ワシントン会議開催

1922年 2月ワシントン海軍軍備制限条約・九か国条約・四か国条約調印 

  

< 1929年世界恐慌始まる >

1930年 ロンドン海軍軍縮条約調印 統帥権干犯問題起こる 

1931年 満州事変起こる

 

 

   1920年代は、大戦により消耗した英仏に代わり、米国は世界の工場として黄金時代を迎えた。史上初の軍縮会議となったワシントン会議において、米国から日本は厳しい選択を迫られた。それは米国による日本の中国と太平洋における拡大進出を抑制しようとするものであった。軍縮は世界の大勢からやむをえないとしても、同会議での九カ国条約により、対華二十一か条要求にて獲得した旧ドイツ租借地などの山東半島における権益を返還させられた。それは日清戦争後の三国干渉による遼東半島返還と同様の「再度の臥薪嘗胆」ではなかったのか。この世界の動きを受認しつつ五大国の位置を保つのか、一方で世界に厭戦気分が溢れていたとはいえ、日本は二流の軍備で生き延びられるのか、満州までも取られないか? という疑念は当然であった。 

 しかし、世界は大きく変わっていた。大戦前の列強のねらいは直接の植民地化や権益の獲得であった。その植民地獲得競争が世界大戦の原因の一つでもあった反省から、大戦後の民族自決の動きもあり、植民地としてではなく、通商貿易市場として見ることに変化していた。

 

1919年のパリ講和会議には、公式な全権や外交官・軍人以外にも多くの軍人、政治家やジャーナリストが会議を見聞に行っていた。時々刻々と会議や欧州の様子が本国に伝わってきた。また、欧州で勝利した国と負けた国の違いは何だったのか、日本と欧米の差が明らかになっていった。第一次世界大戦は国の総力で戦う長期戦(4年3か月間)となり、兵器が大幅な進歩を遂げた。大戦に本格的に参戦しなかったことが日本陸軍を時代遅れにし、第一次世界大戦前の水準に低迷していた。長期総力戦への恐れと現状への不安が拡大していった。特に、陸軍の中枢において、総力戦体制確立とそのための資源確保が急務とされ、その思想が拡大加速されていた。資源のない日本は中国の資源へと目が向き、満蒙領有論が現実味を帯びてきた。

 

対外協調・平和路線に舵が切れなかった原因は陸軍において動きだした大きな流れの存在にあった。

 

 軍人は戦争を始めることはできても終わることはできない、と言われている。宣戦布告なしの「戦争状態」を起こし、そしてそれを終わることは軍人にできる。しかし宣戦布告した国と国との「戦争」になれば、終わるには国としての政治と国際関係への関与が求められ、政治的判断のできるリーダーが終戦には必要となる。

軍人の立場では、得たものを守るためには、その外側にある利益線の確保が必要となり、新しく得た利益線のさらに外側の利益線確保へと、次へ次へと戦争は際限なく続く。それを押し止めて戦争を終わらせるには、ある時点で領土や権益は現状で良しとし、国民と軍部を説得しきれる強力なリーダーの存在が必要になる。陸軍の大きな流れを押し止めることができる強力なリーダーが当時いたのか 陸軍に、政治家に、思想家や学者に?!

 

なお、この動き出した大きな陸軍の流れに関しては、次の「分岐点4 周到に準備された満州事変をなぜ事前に止められなかったのか」でその経緯を詳細に記してあります。

 

 

  この時期、軍部の動きを止められるほどのリーダーが居ればかなりの確率で協調路線へと舵を切れる可能性があった。しかし、残念ながら居なかったのである。大戦後のワシントン会議が終わったのは1922年で、同年元老*山縣有朋は亡くなり、翌々年には松方正義が89歳で亡くなった。残る元老は公家出身の西園寺公望ただ1人になっていた。もはや伊藤博文や山縣有朋並みの、政治と軍事の両方に通じた強力なリーダーシップは期待できなかった。

 

    *元老:明治中期から昭和の初めまで天皇の最高の相談役として重要案件に際して、御前会議で政局のまとめ役を務めた。当初は伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌のいずれもいわゆる明治維新の功臣であった。明治末から大正初めにかけて桂太郎、西園寺公望が加わり9名となった。公卿出身の西園寺のほかはいずれも薩長の出身で、内閣総理大臣等の要職を歴任した長老政治家である。憲法その他の法令に基づく職名ではなく、明治天皇から「元勲優遇」などの詔勅をうけた者や、他の元老に認められた者からなる。 

 

氏名

出身

生没年

元老受命年月日

伊藤博文

長州

1841(天保12年) - 1909(明治42年)

1889年(明治22年)111日受

黒田清隆

薩摩

1840(天保11年) - 1900(明治33年)

1889年(明治22年)111日受

山縣有朋

長州

1838(天保9年) - 1922(大正11年)

1891年(明治24年)56日受

松方正義

薩摩

1835(天保6年) - 1924(大正13年)

1898年(明治31年)112日受

井上 馨

長州

1836(天保7年) - 1915(大正4年)

1904年(明治37年)218日受

西郷従道

薩摩

1843(天保14年) - 1902(明治35年)

正式の任命手続きを経ていない。

大山 巌

薩摩

1842(天保13年) - 1916(大正5年)

1912年(大正元年)813日受

桂 太郎

長州

1848(嘉永元年) - 1913(大正2年)

1912年(大正元年)813日受

西園寺公望

公家

1849(嘉永2年) - 1940(昭和15年)

1912年(大正元年)1221日受

 

伊藤 黒田 山縣 松方 井上 西郷 大山 桂 西園寺

   

政治家ではどうだったのか

 元老たちは、幕末から日露戦争までの対内・対外の苦しい経験から得た知恵と国際感覚から、対外関係には極めて慎重であった。しかし、対華二十一か条要求を突きつけた第二次大隈内閣の外務大臣加藤高明(後に第24代内閣総理大臣)など新世代に属する政治家は概して強硬であった。山縣はか条要求に対し、「対支関係に付き各国の情況を取調べず、訳の分らぬ無用の箇条まで網列して請求したるは大失策なり」と述べている。1918年、英仏から、ロシア革命に対する干渉戦争であるシベリア出兵の要請があった時も賛成せず、米国からの共同出兵の提案があり、米国と共同ならと山縣も納得し出兵した。加藤は外交を元老から外務省へ取り返すため、関係する重要書類を元老へ回さなかったことは有名である。なお加藤は明治元年時にはまだ8歳であった。

 

 他には居ないか? 1920年代には「幣原外交」と呼ばれる時代があった。加藤高明内閣における幣原喜重郎*外相は、日本の国力を正しく認識し1920年代のベルサイユ講和条約、ワシントン条約を遵守する、その国際協調路線は「幣原外交」と称された。幣原は中国に対しては条約上決められた権益は擁護、追及したが、基本姿勢は中国の自主的立場の尊重から内政不干渉であった。幣原外交は対中国関係において、大きく戦争回避への舵を切ることは有りえなかった。

 

       *幣原喜重郎:ワシントン会議時には駐米大使であった。

           19246月~2744041代外務大臣(加藤高明内閣)

           19297月~31124344代外務大臣(若槻禮次郎内閣)

           上記の間は田中義一内閣で、田中が42代外相を兼務していた

           後日、幣原は南部仏印進駐の時、近衛文麿首相に今後の見通しを訊かれ、

           「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか。

           進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した

           逸話が残っている。幣原は太平洋戦争敗戦直後の194510月に内閣総理大臣

                      に就任している。なお、幣原も加藤も三菱財閥創業者で初代総帥岩崎弥太郎

                      の女婿である。

 

 

軍人ではどうだったのか

 軍人では加藤友三郎大将がいた。

 日露戦争日本海海戦時の連合艦隊参謀長。彼は第2次大隈重信内閣・寺内正毅内閣・原敬内閣・高橋是清内閣・本人の加藤友三郎内閣(兼務)と5代にわたり海軍大臣を務めた。1921年(大正10年)のワシントン会議時は高橋是清内閣の海相であった。

 ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。彼が米国発案の主力艦制限「五五三艦隊案」(英米日=5:5:3)を骨子とする軍備縮小に、むしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を払拭し、彼は「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称賛されたという。各国の記者はその痩身から彼を「ロウソク」と呼んでいた。米国案の五五三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛次のように書いている。「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。…… 仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に…… 結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」と。国家あっての海軍だと加藤は冷静に判断している。1919年当時の銑鉄(製鋼・鋳物の原料)生産量は米国31513000㌧、英国8164000㌧、日本は596000であった。 加藤は軍事だけではなく政治のわかる優秀な軍人であった。そして経済力が果たす重大な役割をよく認識し、冷静に判断している。 

 加藤はワシントン会議海軍軍備制限(軍縮)条約ほかの締結直後、19226月に第21代内閣総理大臣に就任し、ワシントン海軍軍縮条約に従って主力艦14隻を廃止、一部を航空母艦に改造した。このため、陸軍も軍縮に踏み切らざるを得なくなり、5個師団の削減とシベリア出兵の中止を決めた。浮いた予算は装備の近代化と国債償還などに充てられた。

 しかし、軍縮から協調外交の推進へと大きく舵を切れる可能性のあった加藤は、首相就任約1年後の1923824日、在任中に直腸がんで死亡した。極めて惜しい人材であり、62歳の早逝である。 彼がもう10年長生きしていれば、日本の運命は変わっていたのかもしれない。

 

  なお8日後の91日には関東大震災が起きている。

 

       参考:「ワシントン会議 米国は日本の中国及び太平洋地域への侵出を抑えるための

                    国際的合意作りを目指した」 8 をご覧ください。

 

 

 

思想家や学者ではどうだったのか 

 当時「大正デモクラシー」と言われる大きな時代の流れがあった。その代表が吉野作造と石橋湛山である。

 吉野作造:吉野は中央公論を中心にキリスト教的ヒューマニズムに立脚して啓蒙活動を展開。デモクラシーに「民本主義」の訳語を与えた大正デモクラシーの代表的な論客である。1914(大正3)東大教授、政治史を担当。彼は内政改革では、普通選挙制や政党内閣制を主張、貴族院や枢密院改革など具体的な改革を提唱した。また軍備縮小、シベリア出兵批判、武断的な植民地支配の批判、朝鮮・中国民族のナショナリズムに理解を示すなどの対外認識を示していた。1926年に社会民衆党の結成に協力、五・一五事件(1932年)*を非難するなど最後まで果敢な社会的発言をやめなかった。193355歳にて没。

なお、吉野は1906年清国の袁世凱に招かれ、長男の克定の家庭教師として天津に赴任、1909年帰国している。当時、1906年には、近代化に成功した日本へ、約6000人の中国人が留学していた

 

    *五・一五事件:1932515日海軍将校らが中心となって起したクーデター事件。

          首相官邸を襲い犬養毅を射殺、牧野伸明内大臣官邸、警視庁、立憲政友会

                    本部、日本銀行、三菱銀行などを襲った。軍人の暴走が始まっていた。

 

 石橋湛山:石橋は大正・昭和期の経済評論家、後に政治家。満州放棄、軍国主義反対を唱えた気骨のジャーナリスト。1911年(明治44)、東洋経済新報社に入社、主幹・社長を歴任。戦前の「大日本主義」に対し満州放棄を主張する「小日本主義」を唱えた。大正デモクラシー期から昭和戦前期に言論人として活躍した。敗戦後の1956年に第55代内閣総理大臣に就任するが脳梗塞を発症し辞任、首相在任期間は65日間であった。

 

 石橋湛山は反帝国主義、 反軍・反戦の自由主義者であり、 日本の「対華二十一か条要求」に対し、一貫して中国を一つの 「主権国家」 と見なして、帝国主義 (特殊権益批判論を唱えていた。一方 吉野作造は当初、中国の混乱した政治社会の現状から、日本の中国における 「特殊権益」を是認したが、後に、1927年成立した蔣介石による南京国民政府に信頼を抱くに至り、対中国認識が変わり、日本帝国主義の在華権益の放棄に近い立場へと転換した。 

 

 しかし、吉野や石橋の論陣は少なからずの影響を与えはしていたが、少数意見に止まり、軍部の動きを止めるほどの力を持つには至らなかった。当時の新聞各紙の論調は、二十一か条要求は当然かつ正当とし、政府の弱腰を非難していた時代の流れであった。 

 

 

  幣原喜重郎    加藤友三郎      吉野作造       石橋湛山

  

 

 以上のとおり、元老亡き後、政治家、軍人、思想家や学者には強力なリーダーが存在せず、残念ながら日本は絶好の分岐点を曲がることはできなかった。

 

 依然としての中国政権の混乱と反日暴動の先鋭化により、満蒙権益を武力による完全維持へと進む大きな流れを、曲げたり止めたりすることには至らなかった。

 

   

 

   分岐点3 第1次世界大戦後五大国になった時 世界の厭戦気分の流れと大正

        デモクラシーの流れの中で  1920年代(大正9年~昭和4年)

    結 論 元老亡き後、陸軍の大きな流れを押し止めることのできる強力な

        リーダーが存在していなかった! 

 

 

                                  以  上 

 

  

 分岐点4 周到に準備された満州事変をなぜ事前に止められなかったのか

  

   満州事変 1931年(昭和6年)918日柳条湖事件~1933年(昭和8年)531日塘沽停戦協定成立 

 

2015年、天皇陛下の新年に当たってのお言葉で、「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。・・・・ この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べておられる。昭和天皇から戦争について多くを引き継いだ昭和天皇の戦争への認識である。

間違いなく満州事変を止められれば支那事変、太平洋戦争へは繋がっていかなかったと思われる。事前に着々と準備をしていたその段階で、満州事変をなぜ、どこかで止められなかったのか!?

 

 

  1次世界大戦の影響は、軍部にとっては巨大なものであった。4年間に亘る総力戦となった大戦後に、軍の近代化と国家総動員体制確立の早期実現を目指し、永田鉄山や石原莞爾ら軍部中央(陸軍省と参謀本部)の中堅幕僚による国家改革構想が大きな流れとなっていった。 

   また、五大国になった「大日本帝国」の維持には米英ソに対抗できる国力(工業と資源)を必要とした。そのためには、総力戦体制構築のためにも、満蒙であり、中国の資源と市場が必要となった。

 

当時、日本に対して3つの外圧が存在していた。

 

1、中国では、1915年の対華二十一か条要求以来、反日運動が激化していた。    

2、五ヵ年計画により国力を増大させているソ連の軍事的南進と共産主義思想の日本への侵入対策が急務となっていた。

3、1922年、米国によるワシントン会議の九か国条約で、日本の対中国への動きには国際的な歯止めをかけられていた。

 

   特に、中国における民族主義運動は、当初は「反帝国主義運動」で列強諸国の権益はく奪運動であった。しかし、日本の対華二十一か条要求以降は、反日運動が大きな部分をしめ始め、遂に1928年の済南事件(後述)以降は、明確に「反日運動」がその中心となった。

 

激化した中国の反日運動、排日行動に対して、日本だけが戦争という手段を拡大し、満州占領、中国との全面戦争へと至ったのは何故なのか。列強も同じように反帝、国権回復運動に直面させられていたことは同様であった。その中で、日本だけがなぜ戦争をしてまで、関東州*から踏み出して全満州を確保しようとしたのか。 

そこには米英仏など欧米列強よる、満州における日本の動きへの様子見があった。欧州では第1次世界大戦末には、民族自決の動きによりハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランドなどが次々と独立国家へと動き始めた時期であり、それはアジア・中国まで波及するのか、そこで日本はどう立ち回るのかの様子見であった。この頃には欧米各国は広大な中国を植民地にするというよりも、大きな通商貿易の市場として見ることも出来ていた。

 

*関東州:当時、満州において条約上日本が認められた権益は、旅順・大連を含む遼東半島先端部の狭い地域・関東州(鳥取県とほぼ同じ面積)と、旅順~長春間の南満州鉄道とその沿線の細長い付属地だけであった。その狭い範囲を守備する目的で設置されたのが関東軍である。

 

 

 

世界大戦の衝撃から、軍部にとって喫緊の課題は永田鉄山や石原莞爾らの思想(後述)にある対ソ、対米総力戦争への、一定の準備であった。加えて、「二十億の資財と二十余万の死傷を以て獲得したる所の戦利品」、「満蒙はわが国の生命線」との民意を成就させる必要があった。日露戦争以降、旅順を含む遼東半島だけではなく、南満州の奉天会戦などで多くの血を流して占領した地域は、これからも確保しておくべきだとの気持ちが日本人の心の底には常に存在していた。さらに、1920年代当時、国内では世界大戦後の戦後恐慌に加え、震災恐慌、金融恐慌、1930年に入ると世界大恐慌波及からの昭和恐慌へと続く経済・社会の混乱、そして東北大飢饉などから、満州が経済的にも国防的にも生命線として意識された。

そして、総力戦体制を確立するための近道は、政争に明け暮れる政党政治に任せられない今、軍事政権化が早道であり、共産主義思想に対抗するためにも、国家主義政権への移行が急務と確信していった。国家主義者の北一輝、大川周明の思想に、国体変革を願う青年将校の一部は熱狂的な支持者となっていった。国家主義的考え方は、近代化に出遅れたドイツや日本で隆盛をきわめていった。

  

 以上を背景に1915年から日本と中国における満州事変への流れを、政府、陸軍省・参謀本部首脳、陸軍省・参謀本部中堅幕僚、関東軍、の4者間における力関係の経過から、少し詳しく見てみよう。

 

         1894年 日清戦争 (7月~953月)

         1904年 日露戦争(2月~059月) 

 

        1911年 辛亥革命起こる

        1912年 清朝滅亡 中華民国南京政府成立(臨時大総統・孫文) 

        1913年 中華民国北京政府成立(大総統・袁世凱) 

        1914年 日本は第1次世界大戦に参戦 青島などを占領 

        1915年 日本による対華二十一か条の要求

 

1915年(大正4年)

○5月 対華二十一か条の要求を中華民国北京政府(袁世凱政権)が受諾。

日本は日清・日露戦争で得た権益と、第1次世界大戦で得た権益他を明確化するために対華二十一か条の要求をした。日本の最後通牒をうけ、袁世凱は要求を受け入れ、「山東省に関する条約」、「南満洲及東部内蒙古に関する条約」ほか13公文書として条約が締結された。これにより、これまでの日本の特殊権益が条約を経て明確な合法権益となった。しかし、条約の解釈については日中間に違いが存在していた。 

中国ではこの二十一か条要求を受諾した5月9日を国恥記念日とし、抗日運動が激化した。当時中国は近代化に成功した日本から学ぼうとしていた。1914年頃には約56000人の中国人留学生が学んでいたが、これ以降、多くの学生は米国へと移っていった。

   

6月 袁世凱 懲弁国賊条例を公布。

袁世凱は日本との上記条約締結直後の6月に懲弁国賊条例を公布した。これは外国人に許可なく土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処すというものであった。「南満洲及東部内蒙古に関する条約」では「各種商工業上の建物を建設する為又は農業を経営する為必要なる土地を商租(借地)することを得」としてあった。中国は土地商租権拡大を極力阻止しようとし、条約は早くも空文と化した。日本はこれを無効とし拒否したが、1929年にはさらに内容が強化される。

 

日本においては条約締結により合法権益として明確化したにもかかわらず、中国の抗日運動と国権回復運動の進展によりその権益が危ない!となっていった。

 

 

1918

○中国においても「民族自決」の高まり。

「民族自決」という考え方は民族主義の高まりの中で提唱され、中国へも拡大していった。大戦末期の1918年には、バルト3国が、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランドなどが次々と独立した。

 

 

11月 第1次世界大戦終結。

 

        大戦による国境の変化

 

 

1919

○五四運動起こる。

大戦後のパリ講和会議では、ドイツの山東半島利権が日本に継承されることになった。中国では学生デモを発端に各地でストライキが起こり(五四運動*)、その要求を受けて、中華民国北京政府(軍閥抗争時代・段祺瑞政権)はヴェルサイユ講和条約の調印を拒絶した。

 

*五四運動:袁世凱死後の段祺瑞政権は1917年、連合国側として第一次大戦に参戦した。参戦は戦勝国となることによって、日本がドイツから継承しようとしている山東半島利権を回収すること、戦争中の対華二十一か条要求の諸内容を無効とすることなどであった。しかし1919年のパリ講和会議では、ドイツの山東半島利権が日本に継承されることになった。その決定を受け抗日・反帝国主義運動は、54日に発生した学生デモを契機として全国規模に発展、抗日・反帝国主義を掲げる大衆運動となった。反帝国主義運動は五四運動を契機としていっそう過激なものとなっていった。日本が大戦に参戦する条件として、英、仏、露、伊と、ドイツ権益を日本のものにするという密約があった。

 

1920

1月 国際連盟常任理事国となる。

 

1921

○中国共産党が上海にて結成された。

 

○第1次世界大戦後の日本における戦後恐慌は深刻化し、ストライキ・小作争議が頻発。

 

10月 国家総動員体制への始動。バーデン‐バーデンの盟約*。

欧州出張中の岡村寧次、スイス公使館付武官永田鉄山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎の陸軍士官学校16期の同期生が南ドイツの保養地バーデン‐バーデンで、陸軍の人事刷新と軍制改革を断行して、軍の近代化と国家総動員体制の確立を誓い合ったとされる。ドイツ駐在中の17期・東篠英機も翌日に参加している。彼らは第1次世界大戦の教訓から、今後戦争は世界大戦となり、国家総力戦となることを確信、国家総動員体制の確立を急務とした。人事の刷新とは、陸軍における長州閥打倒のため、真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎らを擁立することであり、陸士各期の有能な同志の獲得・結集することなどもあった。「国軍の父」であり、長州閥の祖である山縣有朋は4か月後の19222月に死去した。帰国後しだいに同志も増え、1927年頃二葉会を結成した。その後、小畑は皇道派を支持し、岡村と東篠は永田を支持した。

 

*永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎は陸軍三羽烏といわれた。

 

1922 

○2月 ワシントン会議で日本の山東省権益は返還させられた。

大戦後、日本の中国政策を批判する国際世論(特に米国)が高まり、ワシントン会議にて海軍軍備制限条約・九カ国条約・四カ国条約が成立した。九カ国条約にて日本は山東半島権益を還付することとなり、日中2国間で「山東懸案解決に関する条約」が締結され、返還された。

米国主導により、太平洋に関する四ヵ国条約にて日英同盟破棄、海軍軍縮制限条約による海軍軍縮、九ヵ国条約で中国での門戸開放が取り決められた。米国による日本の中国・太平洋地域への侵出を抑えるという目的は達せられた。

 

日本は日清戦争直後に、獲得した遼東半島を露・仏・独による三国干渉により返還させられた。このワシントン会議九ヵ国条約での山東半島放棄は「再度の臥薪嘗胆」であったはずだ。しかしその時既に、日本は山東半島にこだわらず、眼は満州へと向かっていた。

 

 

 

 

参考「ワシントン会議 米国は日本の中国及び太平洋地域への侵出を抑えるための国際的合意作りを目指した」 8 をご覧ください。

 

 

7月 日本共産党非合法下で結成。

 ソ連の共産主義インターナショナル(コミンテルン)の支援により結成。

 

○日本において戦後恐慌以来の不況が慢性化し、銀行取付け騒ぎなどが発生。

 

1923

○3月 中華民国北京政府は日中条約の廃棄を通告。

中華民国北京政府(軍閥・曹錕政権)は二十一か条要求を受諾した日中条約の廃棄を通告してきた。なお、この通告の中には対日旅順・大連回収要求*が含まれていた。

 

*旅順・大連回収要求運動:19233月は帝政ロシアの旅順・大連租借期限の25年目にあたる。中国側では二十一か条要求で認めた旅順・大連租借期限の99年*延長を認めず、ロシアとの期限満了を以て旅順・大連を回収しようとする運動を展開していた。

*租借期限99年:中国における列強の租借期限は、対中国への力関係にもよるが、99年間と設定されることが多かった。香港も99年後の1997年に英国から返還されている。最近、「99年間」が中国によって復活している。2017年にスリランカ政府はハンバントタ港を99年間中国国有企業に貸与している。中国の一帯一路政策が西へ向かって動いている。

 

○中国にて「経済絶交運動」起こる。

二十一か条要求撤廃と旅順・大連回収要求などが、新しい「経済絶交運動」という形態に転換し、日本だけではなく、列強の利害が錯綜する長江流域、特に武漢地区で長期間展開された。1925年には広東にて対英経済絶交運動が起こった。

 

○日本においては大戦戦後恐慌下に震災(9月)恐慌が追い討ちをかけた。

 

1924

○米国で排日移民法が成立。

それまではカリフォルニアなどの州法での移民制限法が、連邦法により国として移民の制限をした。当時日本は人口の急増と恐慌が相次ぎ海外移民が増大していた。おのずと米国から満州へと目が向いていった。

       

参考:「日本人への人種差別の経緯」 8 をご覧下さい。

 

○北洋軍閥奉天派・張作霖が中華民国北京政府の実権を握る。

 

1925

○孫文死亡。中国国民党広東国民政府が樹立される(主席・汪兆銘)。

軍閥が各地で割拠する中、北京(軍閥)政府と国民政府(広東)の2つの政権が併存。中国の政治と社会の混乱はますます激しく過激になっていった。

 

なお、孫文は計16回来日し、合計で約9年間日本に滞在している。孫文は1911年に三民主義をその指導理念とした辛亥革命により、清朝を倒し、アジアで最初の共和国を建設した。191211日、中華民国が発足し孫文が臨時大総統となった。また、孫文に師事した蔣介石も東京の振武学校(中国留学生のための陸軍士官学校予備学校)を1910年に卒業、新潟県高田の第十三師団野戦砲兵隊の隊付将校として配属された。留学中に、東京で孫文らの中国同盟会に加入し、1911年の辛亥革命には帰国して革命に投じている。浙江財閥の宋家の娘・宋慶齢は孫文夫人であり、宋美齢は蔣介石夫人である。宋慶齢は後に中華人民共和国副主席となり、一方、宋美齢は台湾に渡り、中華婦女反共抗俄(ソ連)連合会会長、国民党中央評議委員会主席団主席などを務め、姉と対立した。

 

5月 宇垣軍縮が行われた。 

軍備縮小は、ワシントン会議で日本首席全権委員を務めた加藤友三郎が内閣総理大臣に就任し、海軍軍縮に続いて、陸軍軍縮を主導した。加藤友三郎内閣の山梨陸相により2度にわたり軍備の整理・縮小が実施された。しかし、まだ不足であるとした政府・国民の不満と、関東大震災の復興費用捻出のため、加藤高明内閣時の宇垣陸相により、第3次軍備整理が行われた。宇垣軍縮は4個師団を削減した。それは軍備縮小に名を借りた思い切った陸軍の「体質改善」(近代化)を目指したものであったが、大量の将校の退役と進級の停滞、将校採用枠の削減は陸軍内部に深刻な衝撃を与え、後の派閥抗争の原因となった。

 

5月 五・三〇事件起こる。 

上海の日系紡績会社での労働争議中に、日本人監督が中国人指導者を射殺。上海、青島の多くの日系企業工場へ争議が拡大した。青島では親日派奉天軍閥の保安隊が導入され8人が射殺された。530日、約2000人の学生がこれに抗議して「租界回収」「逮捕学生釈放」を要求。これに対し英国警官隊が発砲し13人の死者と負傷者多数という事件になった。これをきっかけに全上海で反帝国主義(英日)運動が起こった。共産党は労働組合である上海総工会を組織し、全市にゼネストを指令。租界当局は英日米伊の陸戦隊を投入して発砲、32名が死亡した。20万人が参加する市民大会が開かれ、「英日軍の永久撤退」「領事裁判権の廃止」などの要求を租界当局と北京政府へ突き付けた。この運動は全国主要都市へと拡がり、不平等条約撤廃と法権回復運動は国民政府および北京政府の対外基本要求となった。この時点ではまだ反日というよりも、過激な反帝国主義運動であった。

 

1926

1月 第1次若槻礼次郎内閣成立。

 

○7月 国民政府軍北伐を開始。

国民政府の蔣介石は国民革命軍総司令として広東を出て、北京軍閥政府(張作霖)打倒の北伐を開始した。各地に軍閥が乱立し内戦状態にあったが、国民革命軍は地方軍閥を撃破しつつ、北上していった。翌年3月頃までに長江一帯を制圧した。

 

12月 大正天皇崩御。 

 

1927

 

国内では金融恐慌が起こる。震災手形が膨大な不良債権化し、台湾銀行*は休業、多くの銀行や鈴木商店が4月倒産した。

 

神戸で創業し大正時代に日本を代表する一大商社となった鈴木商店。神戸市中央区の本店跡地にあるモニュメント。元鈴木系企業は双日(日商岩井)帝人神戸製鋼所など多数。

 

 

 

中国では、北伐軍が都市を通過する際に、略奪・殺戮・放火・女性への暴行など乱暴・狼藉が行われていた。上海、漢口、南京、武漢などにおいても兵士と民衆の一部による各国領事館、外国人租界、教会などが次々と襲われた。

 

1月 反帝運動の過激化。

北伐軍が上海に迫った時、イギリスは租界の居留民を保護するため日本に共同出兵を要請した。しかし、若槻(第1次)内閣の幣原喜重郎外相は出兵を断り、イギリスは単独出兵した。また、漢口と九江のイギリス租界を民衆が占拠したため、2月にイギリスは漢口と九江の租界を中国へ返還した。反帝運動は最悪の時期を迎えつつあった。

 

○3月 共産党周恩来指導による臨時政府樹立。

上海でのゼネスト・武装蜂起により軍閥軍を一掃し、臨時政府を樹立した。

 

○3月 南京事件起こる。過激な反帝国主義運動はピークを迎える。

蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起こした外国領事館と居留民に対する襲撃事件。反帝国主義を叫ぶ兵士や民衆の一部により、日・米・英・仏の領事館・外国人住居・教会などへの暴行・掠奪・破壊が行われ、金陵大学副校長で米国人のイー・ゼー・ウイリアム博士や震旦大学の仏人教師2名など外国人6名が惨殺され街頭に遺棄された。また婦人も陵辱された。他の都市でも同様の事件が起こった。

米・英は報復として長江に軍艦を派遣し南京を砲撃、中国側に約2000人の死傷者が出た。米・英は、混乱を仕掛けるのは共産党員によるものとして、蔣介石に共産党排除を強く要求した。

戦乱が北部に拡大したため4月、5カ国(英・米・仏・伊・日)の公使は対策のために会議を開き、英・仏国公使が守備兵力の倍増を提議したが、日本公使はいまだその必要がないと回答。幣原喜重郎外相は一貫して不干渉政策をとり、また、米・英から共同出兵を要請された時も断り、国内の軍部・右翼から軟弱外交と非難された。

 

43  混乱が続く中国。

 国民革命軍の武漢攻略の際、一部の兵士と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件が発生。共産党の扇動により発生したとされている。同日、武漢西方の宜昌では米国人全員が長江の英国艦、米国船にて引揚げることを決定。米国公使は在北京米国人に北京からの引揚げの勧告を行った。

 

〇4月4日  日本総領事は在留日本人の引揚げを告示した。46日には日本人婦女子1,320名が日本船2隻に分乗して引き揚げた。その後数回に分けて引き揚げ、2千数百人の在留邦人は400人程となった。

 

418日 蔣介石が南京で中国国民党・南京国民政府を樹立。

上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、蔣介石は南京で独自政府(中国国民党・南京国民政府)を樹立した。国民党国民革命軍は北伐を継続する。 

 

420日 田中義一内閣(政友会総裁、~297月)が成立。

1次若槻内閣は昭和金融恐慌によって経営危機となった台湾銀行*救済のため、日本銀行による特別融資を行う緊急勅令発布を諮ったが、枢密院で否決された。幣原喜重郎外務大臣の外交政策に強い反感を抱く伊東巳代治、平沼騏一郎といった有力な枢密顧問官らが立憲政友会と通じて倒閣に動いたとされている。閣僚失言問題*もあり、この責任をとって若槻内閣は総辞職した。枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。

 

*台湾銀行:日本統治下の台湾における中央銀行。銀行券発行のほか一般銀行業務も行い、台湾産業の開発・支配、日本資本の南方進出を助成。第1次大戦以後は内地金融や対華借款にも乗り出していた。

*大蔵大臣片岡直温の「渡辺銀行が破綻致しました」という失言をきっかけに金融不安が顕在化し昭和金融恐慌が起きた

 

田中義一内閣の成立は、世界大戦後、世界中の厭戦気分や軍需費削減、そして大正デモクラシーにより、軍人は制服を着て外を歩けなかったとも言われた時代であった。軍部はその組織利益を守るために政党へ接近した。政友会*も憲政会(後の民政党*)に対抗するために軍部の力を利用したい思惑があり、政党内閣ではあるが軍人出身の田中政友会総裁が首相になるという状況が生まれた。

田中は1918年(大正7年)、原内閣で陸軍大臣になったが、19216月、狭心症に倒れ、辞任して静養生活を余儀なくされた。回復後政界への転身を図り、19254月、退役と同時に高橋是清の後を継いで立憲政友会総裁に就任した。

 田中の対中政策は、長城以南の中国本土は国民政府による統治を容認するが、満蒙については日本の影響力下にある張作霖の勢力を温存し、それによって満蒙特殊権益*を維持する考えであった。このことは陸軍中央も承知していた。しかし、関東軍は張作霖の排除と、より親日的な自治的独立政権(中国の主権は存続)の樹立を主張していた。満蒙分離論である。翌年の張作霖爆殺により田中構想は崩壊した。

 

 

            *政友会:地方の地主が主な支持基盤であった。また、資本家も支持基盤としており、特に三井財閥とつな

              がりが深 かった。

               *民政党:都市ブルジョアの支持が多く、高級官僚を多く受け入れた政党。

               *特殊権益:満蒙において得た権益のことを日本は独自に「特殊権益」と呼んだ。それは他国には適用されえない、日本の専有権のある権益だとした。長江地域などで列強各国がお互いに同様の権益を得るという従来の権益とは違うという意味である。しかし、英米など列強はそれを認めていない。 

 

528日 第一次山東出兵を命令。

田中内閣が、北伐に伴う混乱から山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため約5000名を派兵した。それまでの若槻内閣の居留民引き合あげ対処とは異なり、列強と同様に軍事力による現地保護の方針に変わった。61日、青島へ上陸した。その後78日には閣議承認を得て、山東半島から北京・天津の南に位置し、多くの日本人が住む済南に西進した

田中首相は、対列強政策としてはそれまでの内閣と同じく国際協調路線であった。従って、英、米、仏、伊の代表を招いて出兵する旨を説明し、中国民族主義の伸長を恐れる各国から異議はなく、この時米英も北京・天津地域へ1000名から2000名の増派を行なっている。

 

6月 政府主催の東方会議開催。

  山東出兵のさなか、中国への対応のため、田中内閣が627日~77日に対中国政策に関する東方会議を開催した。東方会議には田中外相(首相が兼任)ら外務省幹部、駐支公使、奉天・漢口・上海総領事、陸・海軍省、参謀本部・軍令部、関東軍、大藏省、関東庁、朝鮮総督府の各代表者が参加した。ここでは政府、陸・海軍、関東軍が揃って参加をしている。関東軍や外務政務次官森恪らは張作霖を下野させ、満蒙を中国本土から分離することを構想したが、田中らは張を擁立して満蒙を支配する考えであった。

最終日に発表された「対支政策綱領」では、帝国の権益並びに在留邦人の生命財産が不法に侵害される恐れがある場合は、断固として「自衛の措置」をとりこれを擁護する。更に、万一「満蒙に動乱が波及し我が特殊の地位権益」が侵害されるおそれがある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且つ内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず「適当の措置」をとる、としている。在留邦人の保護のみならず、北伐の満蒙への波及を阻止する決意を示している。田中内閣が対中国積極外交の方針を確立したものとして内外の注目を集め、事実、その後の第二次山東出兵などとなった。

この会議をリードした森恪外務政務次官は次のごとくに会議を総括している。「満州の主権は幣原君(前外相*)のいうように支那にあるけれども、しかし、それは支那のみにあるのではない。日本も参与する権利がある。・・・・満州は国防の第一線であるから日本が守る」と。

政府も陸軍も一致して、中国へ進出している日系企業や邦人の利権と安全を守るため、「自衛の措置」としての武力行使を前面に押し出したのである。現地軍にとっては、それを確実に自衛するためには予防的措置が必要であり、芽を摘むための行動に走ることが認められた。 

 

         *幣原外交:1次:19246月~274月、2次:19297月~3112

                    幣原外交の基本は中国の内政・内戦に不干渉の原則を守りつつ、満蒙の日本の権益を確保することにあった。

             現地混乱の時には、武力行使ではなく、邦人の引揚げを指導していた。

 

その一方で東方会議を前にした61日、関東軍司令部が「対満蒙政策に関する意見」を陸軍省と参謀本部へ提出している。同意見書によれば「東三省と熱河区域を統治する一長官を置き自治を宣布せしむ」としていた。それは、満蒙に完全な傀儡独立新政権を建てて、支那から切り離し、日本の特殊利益地域にしてゆくことであり、実際には張作霖を外すことを意図していた。

この時点では、政府はもちろん関東軍も満州の直接の領有までを考えてはいなかったのである。しかしこれ以降は、石原構想や木曜会において満蒙領有の方向が次々と打ち出されていく。

 

○この年、国家改革を目指す二葉会・木曜会が陸軍に結成された。

   陸軍省・参謀本部の中堅幕僚達により二葉会・木曜会*が結成された。世界大戦後現実味をおびた総力戦に備えるための軍の近代化と国家総動員体制の確立、さらに加えて、満蒙問題早期解決、ソ連の軍事的南進と共産主義思想への対策が加わっていた。後に(1929年)両会は合併し一夕会となる。

 

       *二葉会:前出(192110月)。二葉会では以降、満蒙問題に関心が向いていく。 

        *木曜会:参謀本部作戦課員の鈴木貞一と要塞課員の深山亀三郎が中心となり、陸軍中央の少壮幕僚

            グループによって1927年(昭和2年)11月頃発足した。陸軍の装備や国防の指針など軍事に

            かかわる問題を議論・検討する少人数の集団であった。幹事役の鈴木(陸士22期卒業)のほか、

            石原莞爾 (21 期)、村上啓作(22期)、根本博(23期)、土橋勇逸・深山亀三郎(24期)らを中心と

            していた。陸士16期の永田鉄山*や岡村寧次、17期の東篠英機も会員として、この会に加わって

            いた。

 

   この頃から陸軍中央の中堅幕僚達の間には、国家改革などの課題達成のためには、政治・外交を担う政府やそれに追従する陸軍首脳、そして政党は当てにならず、自分達が具体的に動いて改革を推進するしかないという思いから、会として纏まり、動いていった。

 

*永田鉄山の構想:次期世界大戦は不可避であり、日本もそれに巻き込まれる。国家総力戦となる次期大戦に対処するには、国家総動員体制確立と資源の自給自足が不可欠とした。しかし、日本に資源はなく、不足資源は中国(満州・華北・華中)のそれをふくめればほぼ自給しうるとし、まずは日本の勢力圏となっている満蒙を完全に掌握することが中国資源確保への橋頭堡となる、とした。石原莞爾は航空機による日米世界最終戦争論という独特の考えをもっていたが、大きくは永田の構想の影響下にあった。

 

総動員体制と資源自給自足体制の早期確立のためには、外交・政治を政治家にゆだねても実現困難であり、軍部による政治無視が不可欠となった。それが、軍部専行による満州事変であり、華北分離工作となる。しかし、これらの中国への侵攻は、国際法と国際政治の観点を無視しており、ワシントン会議の中国の領土保全・機会均等に関する九ヶ国条約と、翌年に日本も調印するパリ不戦条約に違反するものであった。

なお、パリ不戦条約は19288月、仏・外相のブリアンと米・国務長官のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約である。米・ソも参加した15カ国の調印であったが、後に63か国が参加し、全世界的な国際条約となった。条 国家政策の手段としての戦争の放棄、2条 国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法化 など。しかし理念的・抽象的にすぎたため、結局、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。

 

○8月 蔣介石、内乱に敗れ下野。

蔣介石に率いられた南軍(中国国民党・国民政府)は内部対立や、北軍(中華民国・北京軍閥政府)との戦に敗れ、813日、蒋介石は下野を宣言し、北伐は中止された。こうした状況から、日本政府は撤兵を決定し、98日までに撤兵を完了した。

 

10月 打通線が開通。

中華民国・北京政府の実権を握った張作霖により満州鉄道平行線の打通線が開通した。中国側の満鉄包囲線計画は日本に重大な脅威となった。

 

 

この1927年(昭和2年)頃が日本にとっての歴史の最も重大な曲がり角であった。日本が支援していた北洋軍閥奉天派張作霖が、中華民国北京政府の実権を握った1924年以降、反日の姿勢を強めていたからである。

 

 

1928 

○1月 木曜会にて石原莞爾が「わが国防方針」を発表。

   石原は木曜会1月の会合で「わが国防方針」と題する報告をした。そこで、後の著書にある「世界最終戦論」を論じている。それは最終戦争である日米決戦に備えるために満州を確保し、発展させて国力を養おうとする満蒙領有論である。

 

3月 第5回木曜会にて、武力による満蒙領有の方向を定めた。

   東篠英機(陸軍省軍事課員)より、「帝国自存のため、満蒙に完全なる政治的権力を確立(領有する)を要す。これがため国軍の戦争準備は対露(ソ連)戦争を主体とし、対支戦争準備は大なる顧慮を要せず。ただし、本戦争の場合に於いて、米国の参加を顧慮し、守勢的準備を必要とす」とし、これを「判決」として申し合わせた。

   傀儡政権などではなく、武力行使により満蒙を直接領有すること、および、満蒙に於けるソ連の南進は不可避であり、国軍の戦争準備は対ソビエトを主眼とすべきこととした。このためには、いま条約で認められている遼東半島先端部の小さな関東州から出て、満州全土を対ソ戦の軍事拠点化する必要があった。

 またその時、中国について次のようにも触れている。「日本と中国のあいだの軍事力の格差は歴然としている。それゆえ中国が日本と国力を賭けた戦争をおこなうことはないであろう。したがって、対中国の戦争準備は特段に顧慮する必要はない」としている。中国に対するこの評価、判断は大きく間違っていたと言わざるを得ない。なお、この時点ではその実行時期までは決まってはいなかった。

   政府(田中内閣)は、中国主権の存続を前提として、既得権益を守るための武力行使はありえても、中国や満蒙の領有までは考えの外であった。しかし、この「判決」は中国の主権を完全に否定しており、政府方針を完全に無視するものであった。それは満蒙の権益確保に止まらず、将来戦において、帝国自存のための総力戦準備のためのものでもあった。この方針は、二葉会との合流を経て成立した一夕会にも引きつがれ、より具体化していく。 

 

○4月 形勢を立て直した蔣介石は北伐を再開した。

 同月 第二次山東出兵。

田中内閣は北伐再開に対応し、居留民保護のため第二次山東出兵を決定。約3500名が済南へ入った。済南には約2000名の日本人が居留していた。

 

5月 済南事件起る。

53日、北伐軍兵士による済南商埠地(外国人の居住や企業活動のために指定した地区)の邦人店ならびに日本人への集団的な略奪・暴行・陵辱・殺人が行われ両軍は衝突した(済南事件)。この戦闘は日清戦争以来の日中の軍事衝突であり、1931年の満州事変以降の戦争の前哨戦となった

  54日、日本は第三次山東出兵を決定。

 

  55日、済南近くの鉄道駅で日本人9人の惨殺死体が発見された。 

  58日、日本軍は済南城を総攻撃し、占領した。

虐殺死体の発見を契機として4日間にわたったこの済南城攻撃は極めて激しいものとなり、中国側に数多くの死者を出した。一連の戦闘で在留邦人、中国外交官などにも犠牲者が出た。国民革命軍は済南を放棄し、迂回北上したので、戦闘は11日に終息した。最終的には日本の民間人12名が死亡し、日本軍の戦死者は45名、中国側は一般市民も含め死者約3,600人(中国側の発表)に達した。

翌年の3月末、和平交渉がようやく成立、5月に済南城から日本軍が撤退し、終結した。

 

 

北伐再開により、各地で北伐軍、地方軍閥軍や民衆の一部による暴行、略奪、殺害が行われ、日本でも世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。

 

 

 

作曲者上直行は東京音楽大学教授。年配者は知っている「としのはじめのためしとて・・・」の「一月一日」の作曲者でもある。

 

膺懲*

 

当初の出兵目的は、「居留民保護」というあくまで防衛的な性格のものであったが、邦人の「虐殺死体」の発見を契機として、現地軍及び軍中央の姿勢は一気に強硬なものになり、陸軍内部では、この事件を「膺懲」の口実にしようとする動きが進行した。現地軍は、今こそ「南方に対し断然たる膺懲の挙にいづるの好機なりと信ず」と具申した。参謀本部と現地軍は本事件を利用して南軍を膺懲することに意見の一致をみ、8日には済南城へ激しい攻撃をかけたのである。 

 

*膺懲(ようちょう) :征伐してこらしめること。

当時の日本陸軍のスローガンに「暴支膺懲」(ぼうしようちょう)がある。「暴戻(ぼうれい:残酷で徳義にもとる)支那ヲ膺懲ス」の略語。 

 

「膺懲」は「一撃講和論」と重なり、支那事変、太平洋戦争における現地軍や軍中央の、強硬かつ安易な姿勢の源となった。膺懲の一撃で相手は休戦を呑むという楽観的思考に陥り、戦争を終わらせるためにと新たな戦争を始める。しかしそれでは終わることなく次から次へと進んでいった。さらに一撃講和論は、兵站、情報、衛生などの概念が抜け落ちていた。結果として、日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数は約230万人だが、餓死者の合計は140万人(全体の61%)に達するとの推定もある。

 

  中国民衆の反日感情もこの済南事件で一気に増大した。中国のナショナリズムは五・三〇事件以降、中国に最大の植民地、勢力権を持つイギリスに向かっていたが、この事件以降はその矛先が日本に向かった。

 

 

 

6月 張作霖爆殺。北伐軍北京入城。一応の全国統一なる。

中華民国・北京政府の張作霖は自らの根拠地である奉天へ脱出する途中、関東軍河本大作大佐により爆殺された。

   反日的になった張作霖排除を、関東軍首脳の意向を忖度した二葉会メンバーの関東軍高級参謀河本大作大佐が爆殺した。 田中首相は張作霖を温存し利用しようとしていたが、現地軍である関東軍は反日的になった張作霖に代わる現地人の適任者を東三省長官とする、中国主権下での親日政権の樹立を主張していた。当時の関東軍首脳は、後の満州事変時の関東軍とは異なり、政府・陸軍中央の許可なく軍事行動を起こす意思はなく、また、軍中央も田中内閣の統制下にあった。今件は中堅幕僚達独走のスタートとなる事件であった。

 

中華民国・北京政府は北伐軍に北京を明け渡した。いまだ各地に軍閥が力を持っており、共産党の活動もあったが、蒋介石率いる中華民国・国民政府による一応の全国統一がなった。

 

張作霖爆殺は抗日運動のさらなる激化をまねいた。同年12月、父・張作霖の奉天軍閥(東三省:遼寧省・吉林省・黒竜江省を支配)を継いだ張学良が、全国を統一した中華民国・国民政府の旗である青天白日旗を全満州の官衙(官庁)に一斉に掲げ、蔣介石の国民政府傘下に入ることを明らかにした(易幟)。張学良は12月には国民政府から、国民党委員・東北辺防軍総司令に任命され、東三省の独立的支配を認められた。彼は徹底した「反日」を掲げて行動し始めた。

 

   田中義一首相(長州閥)は軍人出身ではあるが政友会総裁を務めた政治家であった。しかし、陸軍軍人の長である当時の白川陸相・鈴木参謀総長(共に田中系長州閥)は、政治に対しては軍の組織利益を守ることが最大の仕事であった。

   爆殺事件後、さらに大きく軍が独走に進んでいくのは、河本大佐への処分によることが大きかった。当初、田中首相は「犯行者を軍法会議に付し、もって軍紀を振粛せんとす」としたが、白川陸相・鈴木参謀総長ら陸軍首脳は、事件の真相発表は国家のために有害だとして軍法会議訴追に反対し、警備上の不備として、陸軍内で停職の行政処分と決定した。二葉会も木曜会も河本処分には反対した。白川は調査の結果、日本人の関与した証拠はないと田中へ正式に報告し、田中は天皇へ、日本軍人の関与した証拠はない旨を上奏した。この嘘の上奏が田中内閣総辞職の契機となった。

爆殺事件は日本軍によるものであると国際的に知られるようになり、反日運動はより過激となっていった。

 

張作霖爆殺は満州情勢をかえって不利なものにする結果を招いた。関東軍はそのような状況の悪化を一気に覆すため、3年後の1931年(昭和)年に満州事変を引き起こす。

 

7月 国民政府が国権回復運動を展開。

北伐後の中華民国・国民政府(蒋介石政権、主席就任は10月)は、高まる中国民族主義を背景に「国権回復運動」を展開し、対外的には強硬な撤廃要求を提示しつつも漸進主義を採用した。回収すべき国権とは、

・治外法権(領事裁判権)の撤廃 

・関税自主権の確立 

・鉄道権益の回収 

・外国人租界や租借地の回復 

・外国軍隊の撤退       などである。

 

7月 蒋介石政権は不平等条約であった日清通商航海条約の一方的破棄を宣言。

中国を掌握した蒋介石の国民政府は一方的に破棄を通告、日本側はこれを拒否して継続を宣言した。

 

10月 石原莞爾中佐満州へ赴任。

「私の在任期間中に必ず満州をごっそり頂戴して御覧に入れます」と言い残して関東軍作戦主任参謀として満州へ赴任した。石原莞爾は自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画の具体的な準備を始める。石原が関東軍の参謀に任命されたことにより、木曜会の満蒙領有論が実施に移されるのは時間の問題となった。 

同月、 国民政府は立法・行政・司法などの各機関を整え、中華民国・国民政府(南京)として正式に発足した(主席・蔣介石)。

 

○各国が南京国民政府(中華民国・国民政府)を承認。

蔣介石が北伐を完成させ、一応の中国統一を実現したことを受け、国際社会に国民政府を承認する動きが始まった。まず米国が1928年7月に中国に対する関税自主権回復の承認に踏み切り、次いで独・仏・英などヨーロッパ11ヵ国が国民政府との間で関税自主権を認める条約に調印した。その上で米国は同年11月、南京国民政府(中華民国・国民政府)を正式承認、12月には英・仏がそれに続いた。日本は済南事件の解決が長引いたため、19305月、濱口内閣による日華関税協定、10月には従来使っていた「支那」の呼称を「中華民国」に変えた。

         

1929年(昭和4年) 

1月 第10回木曜会において、新規に派閥を形成して組織的に陸相を動かし、国政に介入するとの結論が決まった。

   10回会合において、「戦争指導」において、「統帥権の独立をもって政略を指導せん」とするのは「無理」だとし、「国家的に活動する公正なる新閥を作る」ことが必要だとした。陸軍内に新しい派閥(反長州閥)を形成し、組織的に陸相を動かし、国政に積極的に介入するとの結論に達した。この考え方は永田鉄山らの一貫した考え方であった。この考え方から永田らは過激な皇道派青年将校に対しては批判的で、軍中央部による軍の統制を重視し、合法的手段によって軍主導で国家総動員体制を構築しようとしたのである。これらの流れは、陸軍省・参謀本部の幕僚を中心にした一つの傾向をさし、過激派(皇道派)と対立して軍の統制をはかったことから、後に統制派と呼ばれた。

 

   陸軍が組織として政治を動かそうとするのは、まったく新しい転換の動きであった。山縣有朋が設立間もない陸軍を、1878年(明治11年)、自由民権運動や議会勢力から軍への政治的関与を防御するために、統帥権を陸軍から独立させて天皇直属の参謀本部を作った。また、軍人勅諭(明治15年下賜)においても、「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。従って、現役軍人には選挙権と被選挙権が与えられていない。にもかかわらず第10回木曜会において、国政に積極的に介入するとの結論に至り、陸軍中央の幕僚達は大きく政治への係わりを目指して進んでいくことになった。

   遂に彼らは、日本帝国のために、天皇のために、自分たちは早急に国家改造を成し遂げなければならない存在であり、そのためには政治への不関与という大原則を、自ら乗り越えてしまった。                    

 

○2月 中華民国・国民政府は新「懲弁国賊条例」を公布。

1915年6月の懲弁国賊条例は、この2月に強化され「土地盗売禁止例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、満州では日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害された。

 

〇3月 済南事件終結。

和平交渉がようやく成立し、5月に済南城から日本軍が撤退した。

 

5月 張学良により海吉線が開設された。

これも打通線と同様、満鉄の併行線であり、満鉄包囲線と言われた。満鉄は北満の農産物貨物を失い、1930年には大幅な収益低下のため、2,000人の人員整理を迫られるに至った。

 

○5月 板垣征四郎大佐が関東軍高級参謀に赴任。

三十三連隊連隊長として在満の板垣征四郎大佐は関東軍高級参謀に異動。板垣と石原の2人を中心に満州事変へと計画が具体的に進められていった。

 

5月 二葉会と木曜会が合併し一夕会を組織。

一夕会第1回会合において、陸軍人事の刷新(一夕会会員を主要ポストにつける)、 満州問題の武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系将官*を擁立し新派閥を形成する、を取り決めた。

満州問題の武力解決は、木曜会の第5回会合での「判決」にある満蒙領有方針を引き継いだもので、戦争による満蒙の領有であり、中国の主権を否定するものであった。 

 当時は田中内閣の末期ではあったが、白川陸相・鈴木参謀総長ともに長州閥であり、一夕会は永田を中心に小畑、岡村が主導して、非長州系と一夕会メンバーによる陸軍中央の重要ポスト掌握へ向けて動き始めた。

 

*長州系将官:陸軍主流トップは、山縣有朋以来田中義一首相まで、長年長州閥が主流を占めていた。

 

 

 一夕会会員

   陸士14期 小川恒三郎

   陸士15期 河本大作、山岡重厚

   陸士16期 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎、黒木

    親慶

   陸士17期 東條英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固

   陸士18期 山下奉文、岡部直三郎、中野直三

   陸士20期 橋本群、草場辰巳、七田一郎

   陸士21期 石原莞爾、横山勇、町尻量基

   陸士22期 本多政材、北野憲造、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一、牟田口廉也

   陸士23期 清水規矩、岡田資、根本博

   陸士24期 沼田多稼蔵、土橋勇逸、深山亀三郎、加藤守雄

   陸士25期 下山琢磨、武藤章、田中新一、富永恭次

  

 

 

○6月 天皇の「逆鱗」により田中首相辞任。

   田中首相は前年の1224日に参内し、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)には日本軍人の関与の疑いがあり、事実なら厳重に処罰する旨を上奏していた。しかし、陸軍からも閣僚からも強硬な反対が続いていた。遂に田中も方針を変換し、日本人関与の証拠はなく、警備上の手落ちとして、軍法会議ではなく行政処分にすることを決め、628日、これを首相自らではなく陸相から天皇に上奏させた。

   翌日628日の奈良武次侍従武官長の日記によれば、12月の田中首相の「上奏の際、陛下より(爆殺の)責任を取るにあらざれば許し難き意味の御沙汰ありし由、然るに首相は解せざりしか或は解せざる風を装ふてか、(本日)白川陸相に勧め責任者処分の件を内奏せしめたるため逆鱗に触れ、事頗る面倒に立至れり」とある。午後「侍従長より首相(田中)の参内を求め聖上逆鱗の旨を伝へたるに、首相は辞表捧呈の決心をなしたりと云う」と記している。

   なお、辞職後の929日、田中は急死した。103日の葬儀に奈良は出席しようとしたが、「参列遠慮すべき通知ありしに依り」斎場から引き返している。天皇の意志があったものと思われる。また、翌年の6月24日の奈良日記によれば、陸軍大臣の依頼により奈良が、「停職中の河本大佐復職の件御内意を伺いたる所、陛下は直ちには御嘉納あらせられず」「今後再び如此事を発生せしめずと云うなら容さんとのこと」であった。天皇は鈴木貫太郎侍従長と相談し、「恩給権を得せしむる為の一時的復職とすることに決定」したと記している。天皇は河本を許さなかったのである。

 

7月 田中義一内閣総辞職(田中9月死亡)。

張作霖爆殺犯人の河本大作大佐の処分問題で天皇の逆鱗に触れ、総辞職した。田中内閣は一応政党内閣ではあったが、要職を実質的には非政党員が占めたことによって、自由主義者・平和主義者を弾圧する法制が整備され、それが結果的に政党そのものの没落を招いた一因とされている。具体的には、全府県特別高等警察や思想検事と思想憲兵の設置、文部省による各大学・高校の思想善導、最高刑を死刑とする治安維持法の改正など思想取締の強化が行われ、三・一五事件*では日本共産党を壊滅に追い込んだ。吉野作造は、田中内閣の政策を止める存在がいなくなってしまったことを挙げて、「最悪の内閣」と糾弾している。

 ただし、19273月、昭和金融恐慌が起こり(鈴木商店が倒産し、台湾銀行が休業した等)、同年4月に成立した田中内閣では蔵相に元内閣総理大臣の高橋是清を起用し、モラトリアム(支払猶予措置)にて金融恐慌を鎮静化した実績もある。 

 

*三・一五事件:19282月第1回の普通選挙(最初の男子普通選挙 25歳以上)が実施され、その結果、社会主義政党の活動に危機感を抱いた田中義一内閣は、3月に治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。当時非合法政党の日本共産党、合法政党の労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。

 

 7月 濱口雄幸内閣成立 陸相は宇垣。

   田中首相の失脚後、濱口内閣が成立した。圧倒的な議席を有する民政党を率いる濱口は、大衆に支持されていた。また宮中からも信頼されていた。日本の国力、実力を知る濱口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。 

   濱口内閣において宇垣*が陸相となり、宇垣は陸軍内において山縣有朋から田中義一へと長州出身者による長州閥を引き継ぎつつ独自の宇垣閥を形成していった。                               

   参謀本部は内閣や陸軍から独立した存在であったが、当時は内閣の陸相による参謀本部の人事を通じてコントロールができていた。 

 

*宇垣閥:宇垣一成の子飼いで陸軍中央を固めた人脈。満州事変が起きた時には、このグループが陸軍大臣をはじめとする陸軍の中枢を握っていた。陸軍大臣南次郎、参謀総長金谷範三、二宮治重参謀次長、後に首相になる小磯国昭、太平洋戦争期に参謀総長を務めた杉山元などである。宇垣は、清浦奎吾内閣から加藤高明内閣、若槻禮次郞内閣(1次)までの3内閣連続で陸相を務め、その後の濱口雄幸内閣でも陸相を務めた。宇垣は政治のわかる陸相であった。彼はワシントン体制を前提とした対米英協調を基本とする国防方針を考えていた。加藤高明内閣では陸相として軍縮と軍の近代化を推し進めた。その軍縮の過程で、定員の縮小に伴い多くの将校が退役となり、陸軍内の反発を招いた。そのため反宇垣派が形成され、木曜会、一夕会の動きと共に、それは拡大していった。

 

7月 中ソ紛争起こる。

南京国民政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、まず北満のソ連権益に向けた。中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を実力で回収しようとした。ソ連は7月に国交を断絶し満州に侵攻、中東鉄道全体を占領した。12月にハバロフスク議定書が締結され、中東鉄道の経営と特別区の行政はソ連が一手に握るなど満州における影響力を強めた。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった。また、ソ連の侵出は日本にとっても満州での大きな脅威となった。張学良は中ソ紛争後は排日に転換した。

なお、1932年に満洲国が成立すると、ソ連は満洲国を承認しなかったものの、中東鉄道は事実上の満洲国とソ連の合弁となり、1935年には北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。

当時、ソ連は5ヵ年計画(1928年~32年)における農村集団化により農業生産が減退していた。1931年と32年には凶作が重なり、多くの餓死者が出た。その数は100万から500万人と言われている。特にウクライナ地区では、ホロドモールと呼ばれる1932年から33年にかけての大飢饉となった。ソビエトにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であったため、飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けた。それがウクライナの更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出)。

     

8月 岡村寧次大佐(一夕会)が陸軍省人事局補任課長となる。

    補任課長は全陸軍の佐官級以下の人事に大きな権限を持っていた。一夕会による中央ポストの掌握が本格化していく。

 

10月 世界大恐慌起こる。

 

 

左:「 暗黒の木曜日 と呼ばれた1024株を売るためにウォール街の証券取引所に押し寄せた人たち。

中:「私は3つの商売( trade ) を知っている。3つの言葉が話せる。3年間戦場にいた。3人の子どもを

   抱え3ヶ月失業している。1つでいいから仕事がほしい。」

右:7人の子供を抱えて極貧生活を送っていた移民の母

 

 

11月 濱口内閣金解禁を決定。

翌年1930年(昭和5年)111日をもって金解禁を実施することを発表した。しかし、この発表直前の10月、ニューヨーク株式市場の株価大暴落により米国経済は大混乱に陥っていた(「暗黒の木曜日」)。これが世界恐慌のきっかけになるが、当初日本国内ではその影響について意見がまちまちであった。井上準之助大蔵大臣(元日本銀行総裁、元大蔵大臣)は、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していたことから、今回の恐慌を通常経済の範囲内での出来事と考え、金解禁に踏み切った。完全な失政であった。 

 

同様のことは最近の2008年にもあった。米国サブプライム住宅ローン問題による金融市場の混乱を、当時の白川日銀総裁が「最悪期は去った」と6月に発言している。しかし、3か月後の9月には「100年に1度」の危機と言われたリーマン・ショック起きている。 

 

1930年(昭和5年) 

〇この頃満州に於いて、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、正当な許可を得たものは満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、1930年、31年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り外務省に南京国民政府との交渉を求めたが、中国側からの回答は得られなかった。これらにより現地関東軍は本国の外交はまったくあてにできず、外交より武力行使による満州領有の必要を実感していった。この時期、陸軍中央の幕僚達も同様の考えに至っていた。 

 

○昭和恐慌起こる。 

濱口内閣による金解禁と緊縮財政断行により深刻なデフレが進行し、そこへアメリカで起き世界中を巻き込んだ世界恐慌の日本への波及により1930年(昭和5年)3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼、農産物等の価格は急激に低下した。1930年(昭和5年)から翌1931年にかけて日本経済は危機的な状況に陥った。昭和恐慌である。1932年には世界の工業生産は半減した。

   米英を中心に保護貿易が採用され、遂にはドル、ポンド・ブロックなどが閉鎖的なブロック経済圏を形成した。持たざる国の独、日などは、自給自足体制確保のために、軍事的侵略の道を進まざるを得なくなった。満州には鞍山の鉄、撫順の石炭、日本の3.4倍の大地が待っていた。日本では加えて、1930年から34年にかけて昭和東北大飢饉が発生していた。

   国民の多くが前途に深刻な不安を抱き、対外協調路線などより経済と生活が最優先課題となり、政治を根本的に革新しなければならないという雰囲気が濃厚に醸成された。満蒙の武力解決計画と並行して政党政治の根本的否定をめざす運動が軍部内で進められていく。

  

 

 

 4 濱口内閣、ロンドン海軍軍縮条約締結 統帥権干犯問題起こる*。

 日本の補助艦保有量は米国の7割弱に抑えられ、海軍内部は条約賛成の「条約派」と、反対する「艦隊派」が対立した。

 

         *参考:「軍部独走への根源  統帥権の独立と軍部大臣現役武官制」 8 をご覧下さい

       

○政党はあてにできない。

当時の二大政党下においては、政権与党の失策が野党の得点となるので、野党は与党より優れた政策を打ち出すよりも与党を批判し、政権から引きずり下す方を優先した。また、カネやポストの提供による議会内の多数派工作にしのぎを削っていた。国民や軍人の眼には泥仕合としか映らなかった。

田中政友会内閣はパリ不戦条約に調印したが、かつて幣原の下で協調外交を推進した野党の民政党は不戦条約調印に反対した。民政党は天皇の国日本が不戦条約条文の「人民ノ名二於イテ」調印することは憲法違反だと政友会内閣を批判した。批判のための批判でしかなかった。次の内閣である濱口民政党内閣(外相・幣原)はロンドン海軍軍縮条約に調印した。第58帝国議会における同条約の批准をめぐる論議において、野党政友会の犬養毅と鳩山一郎は、海軍軍令部の同意の無い海軍軍縮条約の調印は統帥権の干犯*である、と非難して濱口内閣を攻撃した。与党の民政党を倒すため統帥権を持ち出したのだが、その後統帥権は一気に拡大解釈され、これ以降、政府が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」とされた。

1930年時点では、本来どちらの政党も不戦条約や軍縮条約には賛成であった。軍にとっては政権が代わっても軍縮の方向は変わらず、一方、脅威であったソ連は1928年からの第1次五カ年計画により、強引な近代化と工業化が進められていた。重工業化は成功裡に進んでおり、軍備も増強している。その対応のためには、政党に頼らず、軍自ら一刻も早く、軍事行動によってでも政権をとる必要があるとの方向に動いた。

満州においては、条約上で日本が認められている権益は狭い関東州と南満州鉄道とその沿線の細長い付属地だけであった。しかし、対ソ連戦の戦略的軍事拠点を確保するには、遼東半島を出て満州を手に入れる必要があると陸軍は当然に考えた。また、1910年に併合して日本領となった主権線の朝鮮を守るためにも、満州がその外側にある利益線として確保すべき領域となっていた。

 

7月 中国共産党の都市武装蜂起。

ソ連のコミンテルンの指示により中国共産党は、蒋介石政権の弱体化を狙って、各都市で武装蜂起した。しかし、長沙を占領した湖南省労農兵ソビエト政府の樹立を除いていずれも失敗した。この時、長沙の日本領事館が襲撃され焼かれた。長沙ソビエトは、日本・米国などの軍艦からの艦砲射撃に援護された国民政府軍の反撃にあって、9日間で長沙を撤退した。

 

8月 永田鉄山大佐が陸軍省軍事局軍事課長に就任。

   軍事課長は政策立案のみならず、予算編成と配分に実質的な強い発言力を持っており、全陸軍における最も重要な実務ポストであった。

 

   翌年の満州事変直前までには陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握した。

             満州事変時の一夕会主要メンバー

                                  陸軍省:

                                             軍事課 課長・永田鉄山、

                                                         支那班長・鈴木貞一、

                                                         外交班長・土橋勇逸、

                                             補任課 課長・岡村寧次、

                                             徴募課 課長・松村正員

                                             馬政課 課長・飯田貞固

                                   参謀本部:

                                             編成動員課 課長・東篠英機

                                             庶務課 庶務班長・牟田口廉也

                                             作戦課 兵站班長・武藤章

                                             欧米課 課長・渡久雄

                                             支那課 支那班長・根本博

                                             運輸課 課長・草葉辰巳

                   教育総監部:

                                             第二課 課長・磯谷廉介

                                             庶務課 課長・工藤義雄  

                     関東軍   高級参謀・板垣征四郎

                                                           作戦主任参謀・石原莞爾

                                                           奉天特務機関長・土肥原賢二 

 

 一夕会メンバーは1880年(明治13年)以降の生まれで明治の教育を受け、日清・日露戦争の実戦を指揮したことのない、そして、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業した軍事専門職としてとしてのエリート達であった。このような新世代が、新たな戦争指導にあたっていく。 

 

9月 秘密政治結社・桜会の結成。

   参謀本部橋本欣五郎中佐、陸軍省坂田義朗中佐、東京警備司令部参謀樋口季一郎中佐の3人が、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への早期改造を目指して超国家主義的な秘密結社・桜会を結成した。会員は翌年5月頃には100余名まで増加したが、内部は破壊派・建設派・中間派の三派があり、絶えず論争があったという。

   桜会の橋本・長らを中心とした急進的なグループは、右翼大川周明らと結んで、翌年3月の三月事件、同年10月の十月事件へと進む。

   桜会趣意書は、悲憤慷慨はしているが、具体的に何をどう変革するか明らかなものはなかった。また、桜会の会合は毎月偕行社を利用していたが、やがて資金が豊富になると、急進派は新橋で美妓を侍らせておこなったので、後の青年将校達に“宴会派”と呼ばれた。 

 

10月 ロンドン海軍軍縮条約を濱口内閣批准。

   濱口内閣は軍部や一部政党の猛反対を押し切って、ロンドン海軍軍縮条約を枢密院本会議に諮り、正式に条約が批准された(国際条約の締結は、天皇の諮問機関である枢密院の諮詢事項)。ここまでは政府が軍部をなんとかコントロールできていた。しかし、次の内閣である若槻(2次)内閣は、満州事変勃発後は軍を制御できなくなり、3カ月で総辞職している。

 

 1114日 濱口雄幸首相への右翼による狙撃事件発生。

 濱口内閣の金解禁と緊縮財政断行は大不況と社会不安を生み出した。また、野党政友党や軍部などの強硬な反対を押し切っての、ロンドン海軍軍備制限条約調印は統帥権干犯問題を引き起こし、軍部、右翼の憤激を招いた。濱口は東京駅で愛国社の佐郷屋留雄に、陛下の統帥権を犯したとして狙撃され重傷を負った。

幣原外相が臨時首相代理を務めたが、野党・政友会の鳩山一郎らの執拗な登壇要求は止まず、濱口は無理をして衆議院・貴族院に出席、登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。翌年413日に首相を辞任し、826日死去した。

  

 

 

 

 

昭和恐慌下、軍部と右翼によるテロとクーデターが始まった。

 

 

 

 

    1931年 三月・十月事件:陸軍の桜会が中心になって計画したクーデター未遂事件 

                   (9月満州事変開始)

    1932年 血盟団事件  :右翼団体による暗殺事件。前大蔵大臣井上準之助、三井財閥団琢磨暗殺

        五・一五事件 :海軍将校らによるクーデター、首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、

                日本銀行、警視庁などを襲撃。犬養毅首相射殺。

    1933年 神兵隊事件  :右翼団体が中心となって企てたクーデター未遂事件

    1934年 士官学校事件 :陸軍皇道派将校が陸軍士官学校生徒を扇動したクーデター未遂事件

    1935年 永田鉄山斬殺事件

    1936年 二・二六事件

 

 

○関東軍では年末までに満州領有のための武力行使計画がほぼ完了した。

  陸軍省軍事課長の永田鉄山大佐は中国出張の際に関東軍石原参謀と会い、石原の満蒙領有構想を支持し、石原の要請を受けて攻城用の大口径砲を奉天へ送り、317月には据え付けが終わっている。板垣・石原を中心とする関東軍は武力行使による満蒙領有の計画をほぼ完成させ、軍中央でも一夕会による支援体制が整って行った。

 

○中国で内戦(中原大戦)起こる。

この年、蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が華北高原で戦った。最終的には張学良(奉天軍)が南京政府側についたため、蒋介石軍(南京政府)が勝利し、主要軍閥は瓦解、蒋介石の軍事・政治的指揮権集中が強化された。

 

 

   いよいよ風雲急を告げる1931年に入る。

 

 

 1931年(昭和6年) 

1月 「満蒙はわが国の生命線」。

衆議院本会議で政友会の松岡洋右前満鉄副総裁は「満蒙はわが国の生命線」であるにもかかわらず、「絶対無為傍観主義」と幣原外交の弱腰を非難した。幣原外交の、権益維持のための中国との共存共栄論を許容しないところまで来ていた。中国が条約を守らないのだから弱腰外交ではずるずると押し切られていくのみ、満蒙問題の早急な解決をするためには・・・となった。

 

 2月 国民政府は「鮮人駆逐令」を発令。

19292月の新・懲弁国賊条例により満州での日本人(朝鮮系が大部分)に対して弾圧・排除する動きとなっていた。特に、朝鮮との国境に接する満州東南部の間島付近に移住していた朝鮮人は1930年(昭和5年)頃には60万人に達しており、排斥運動が激化した。

こうした中で間島の朝鮮人による独立運動勢力は、1930年に中国・日本当局双方と対立する中国共産党と連携して 間島朝鮮人武装蜂起を起こした。張学良ら現地の指導者は共産党勢力の取締を理由に朝鮮人弾圧を正当化し、翌年1931年(昭和6年)2月に国民政府は「鮮人駆逐令」によって朝鮮人を満州から追放しようとした。 

行き場を失った朝鮮人農民の一部が、満鉄沿線付属地である長春の西北  30kmにある万宝山へ入植した。万宝山事件へと至る。

 

3月 陸軍によるクーデター未遂事件発覚(三月事件)。

桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは、幣原喜重郎首相代理の失言問題*で議会が混乱に陥ったのをみて、大川周明などの協力を得て、陸相宇垣一成を首班とする軍事政権樹立を計画、国家改造の実現を目ざした。しかし、陸軍省内でも永田鉄山軍事課長や岡村寧次補任課長らが反対し、桜会の中でも反対者が出て、宇垣が消極姿勢に転じたことから計画は中止となった。

    参謀本部や陸軍省の中枢幕僚達をこれほどまでに増長させたのは何か。それは張作霖爆殺事件の河本大佐らに対する、軍法会議にもかけなかったという処分にあった。田中義一内閣は天皇の叱責により倒れたが、河本の処分は停職処分であり、後に満鉄の理事などに就く。三月事件では、陸軍首脳も一定の関与をしていたことから、首謀者に何ら処分も行われず、陸軍は緘口令を敷いて事件を隠匿した。続く満州事変に呼応しての十月事件でも、橋本欣五郎中佐や張勇少佐らを20日間の重謹慎にし、地方や満州へ転出させただけの軽いものであった。憂国の情熱から出たものなら、軍紀・軍律を犯しても許されるとする考え方が存在していた。それは既に法治国家を逸脱している。ここまでに至ったのは、統帥権の独立という美名の下に、自分たちを国法の外に位置づけ、特別の存在にしたからである。この事件は、のちに軍部によるクーデター計画の常態化の始まりとなり、五・一五事件、陸軍士官学校事件、そして1936年の二・二六事件へと至る。

 陸軍省と参謀本部の幕僚達は、急進的な皇道派と組織的に政治を動かそうとする 統制派に分化、対立していく。

 

*幣原喜重郎首相代理の失言問題:2月の第59議会衆議院予算委員会において、幣原内閣総理大臣臨時代理はロンドン海軍軍縮条約を天皇が承認したことを盾に批判を封じようとしたが、幣原の言葉が、天皇への責任転嫁であるとして、政友会に追及され、この失言問題で議会は混乱した。政党は相変わらず足の引っ張り合いに終始していた。

 

   1次世界大戦後に世界各地で暴力革命を意図する結社や団体が多く発生した。共産党もその1つであるが、多くは国粋主義の右翼系である。世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、1930年の国会選挙でヒトラーのナチ党が第2党に、19327月の選挙でナチ党は第1党となった。 

  

3月 参謀本部情報部は「昭和六年度情勢判断」を策定し、4月参謀本部・陸軍省の正式承認を受けた。そこでは満蒙問題の「根本的解決」の必要性が主張され、その方策としては、親日独立政権樹立案(中国主権下)、独立国家建設案、満蒙領有案の3案が記されていたとされている。この「情勢判断」は現在のところ所在不明ではあるが、策定に加わっていた橋本欣五郎ロシア班長の手記によれば、その結論部分には「政府において軍の意見に従わざる場合は断然たる処置に出るの覚悟を要す」との旨が付言されていたという。この「昭和六年度情勢判断」を基にして、6月には陸軍省・参謀本部合同の五課長会議にて「実行案」が作成される。

  

 

 ○4月 濱口内閣総辞職、若槻2次内閣が成立。

濱口容態悪化のため辞任、第2次若槻内閣が成立。陸相は宇垣から南次郎陸軍大将(宇垣派)に代わった。この若槻内閣は満州事変勃発(9月)後、軍を制御できず12月には総辞職した。8カ月間の短命内閣であった。

 

○5月 石原莞爾「満蒙問題私見」を発表。

   石原は、満蒙問題の解決策は「満蒙を我が領土とする」ことであり、「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず」とし、軍中央や政府を武力行使に引き込む覚悟を固めていた。これに加えて満蒙領有が恐慌による不況を打開する手段との位置付けが付加されている。関東軍はこれにより具体的な戦闘準備に入り、9月27・28日頃の決行を申し合わせた。

 

○6月 陸軍省・参謀本部合同の五課長会議にて「満州問題解決方針の大綱」を決定した。

   前年1930年末、満州・華北視察で憂慮を深めた一夕会の永田鉄山軍事課長は619日、建川美次参謀本部第二(作戦)部長を委員長として、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議を発足させ、3月の「昭和六年度情勢判断」への実行案として「満州問題解決方針の大綱」を決定した。 

   大綱には、張学良排除にはもはや武力行使しかなく、「約1カ年すなわち来春まで」にその準備を完了する。軍事行動に必要な兵力は、関東軍と参謀本部作戦部が協議して計画する。関東軍首脳部に「来る1年間は隠忍自重」のうえ、排日紛争に巻き込まれないように努めさせる、というものであった。これは参謀本部・陸軍省首脳(宇垣派)の承認を得て、関東軍にも伝達された。

   参謀本部も陸軍省も1年間の執行猶予を政府に預け、その間に軍事行動への準備を整えようとしたのである。しかし、1年を待たずして、3か月後には関東軍による暴発が起こる。

   遂にこの時点では、一夕会のみならず陸軍中枢を握っていた宇垣派も、満州で何らかのかたちで行われる武力行使を容認したのである。しかし、宇垣系陸軍首脳の武力行使の意図は、あくまでも「条約上に於ける既得権益の完全な確保」であり、中国主権下の傀儡政権を成立させようとしたものであった。一方で、木曜会・一夕会・関東軍の意図は、ソ連との戦争に備えるため、そして満州の資源、市場を確保するために、武力行使による全満州領有がその目的となっていた。

   なお8月、五課長会議は山脇に代わり東篠英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。このうち5人が一夕会のメンバーであった。 

 

 6月 柳条湖事件を板垣征四郎、石原莞爾と共に首謀した奉天特務機関の花谷少佐が東京に飛び、関東軍の満蒙制圧計画をひそかに打ち明けている。打ち明けた相手は、参謀本部建川美次少将、同橋本欣五郎中佐(桜会)、同重藤千秋大佐(桜会)、同根本博中佐(一夕会)、そして陸軍省永田鉄山大佐(一夕会)などである。この時に9月末の実行予定を伝えているものと思われる。

   一夕会の永田鉄山らが陸軍中央を引きずり、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動いて満洲事変の準備が整えられた。

 

6月 中村震太郎事件起こる。

陸軍参謀本部員中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長が、大興安嶺の東側一帯の調査中に奉天軍所属の中国兵に捕えられ、スパイ容疑で銃殺され、証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた事件。現役の参謀本部将校が中国軍に殺されたことにより、満蒙での武力行使の好機とし、南陸相も満蒙問題解決のためには武力発動を辞さないと声明した。日本の世論は沸騰、中国の非道を糾弾、日中間は緊迫した。陸軍中央首脳部も何らかの軍事行動はやむをえないと確信した。この事件は石原の早期実施、9月下旬の謀略実行にはずみをつけた。

しかし、張学良は事態を重大視して、万一の場合は無抵抗を指示し、遺憾の意と平和的解決の意志を日本側へ伝えている。

 

7月 万宝山事件起こる。

 長春の西北 30kmにある万宝山付近へ4月に入植した朝鮮人農民と支那人農民の間に水路問題をめぐって衝突が起こった。長春県警察により朝鮮人が逮捕されるなどし、日本の長春領事館警察も出動、双方発砲したが死者は出なかった。事件は過去数年に満州で発生した紛争に比べて特に重大なものではなかったが、朝鮮で「朝鮮人多数が殺された」というデマを新聞が報道したため、朝鮮及び日本で、朝鮮人による大規模な排華運動が起こり、100人を超える支那人居留民が虐殺された。

 

これらの事件により日韓の国民感情は満蒙問題の武力解決へと向かった。

 

7月 張学良の東北政務委員会は「盗売国土懲罰令」を制定。

 盗売国土懲罰令は外国人に土地を貸したり売ったりした者を国土盗売者として処罰するもので、そのため満州において多くの移住朝鮮人は土地を奪われ、抵抗した者は捕らえられ投獄された。朝鮮人移住民は日本の手先と見られ中国側の反日の矢面にたたされていた。

 

7月 当時、日本国民の戦争への意識はどうだったのか。

この頃、全国で開かれた国防思想普及講演会で在郷軍人会などの論者は「支那は条約を守らない国」として国民に訴えていた。

加藤陽子東京大学教授によれば、19317月(満州事変の2カ月前)、東京帝国大学学生への意識調査で「満蒙に武力行使は正当なりや」に対して88%の学生が正当と答えている。その内訳では「直ちに武力行使すべき」が52%、「外交手段を尽くした後に武力行使をすべき」36%であった。ただし、武力行使は不可という学生も12%いた。満州事変勃発直後に同じく東京帝大生に行なった意識調査で、「君たちは満蒙を日本の生命線とみなすか」「満蒙問題は軍事行動をもって解決されるべきだと思うか」に対して、やはり9割の学生が「はい」と答えている。満蒙問題をめぐって国民の中に、問題解決のための唯一の方法として、もはや武力行使を容認する意識がかなり高くなっていたと言える。

満州事変勃発前の多くのマスコミ論調は、社説面では満蒙問題に冷静で理性的解決を説いていた。事変直後においても、既得権益が維持できれば良いという穏健な姿勢を示していた。しかし事変が進むと、報道合戦となり、戦勝に伴う軍事行動を称賛する論調となっていった。

 

「無主の地」とはいえ、いきなり植民地にすることは各国の干渉を招くため、当面は張学良に代わる中国主権下の傀儡政権を樹立して体裁を整えるとされたが、早急な「満蒙領有」を意図する関東軍の石原莞爾や板垣征四郎らは傀儡政権樹立には否定的であった。また一夕会も一枚岩ではなく、遵法精神が篤く陸軍の統制を重視する永田鉄山は、1年間を待たず早期独断専行も辞さないとする石原莞爾らの暴走抑止に努めていた。

そうしたなか中村震太郎殺害事件、万宝山事件が発生した。世論は沸き、幣原外相の協調外交を軟弱とする非難が沸騰した。それは満蒙問題の武力解決へと利用された。

 

○8月 本庄繁中将が関東軍司令官に就任。

   8月の定期人事異動により、陸軍省・参謀本部・関東軍の新体制が決まった。本庄新司令官を巻き込んで、石原莞爾・板垣征四郎らは927日の武力行使の謀略に直ちに着手した。

   なお、本庄は終戦直後、満州事変の最高責任者として自決の覚悟を決め、GHQから戦争犯罪容疑者として指定された翌日割腹自決を遂げた。板垣征四郎はその後、近衛・平沼内閣の陸相、支那派遣軍総参謀長を歴任。大戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ絞首刑となった。東篠英機は逮捕時に拳銃自殺を図るも失敗し、A級戦犯とされ絞首刑となった。石原莞爾は後に東篠英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東篠の立場が寄与したか戦犯指定を免れている。

 

8月 参謀本部作戦課長に今村均大佐が就任。

   永田の意向で実現したもの。作戦課長は参謀本部で実務上最も重要なポストである。今村は一夕会メンバーではなかったが、後の統制派の母体となる永田グループに加わっている。今村作戦課長は建川作戦部長から「満州問題解決方針の大綱」に基づく作戦具体化案の作成を指示され、8月末までに作成した。建川は決行を927日と知っていた。

 

9月 天皇から南陸相に軍紀に関し注意があった。

11日外務省の情報などから陸軍の動きを懸念していた唯一人の元老・西園寺公望は、天皇にそれを伝え、天皇から南次郎陸相に軍紀に関し注意があった。

  奈良侍従武官長日記によれば、「陛下より陸軍の軍紀問題並びに陸軍が首唱となり国策を引摺るが如き傾向なきや等に就いてご注意在り」と。南は「不軍紀のことなき様充分取締り居る旨奏上」したとある。南陸相の天皇への嘘が始まる。

   幣原外相も奉天総領事からの情報を得て陸相に抗議した。同日、元老・西園寺は南陸相へ「満蒙といえども支那の領土である以上、こと外交に関しては、すべて外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかく言うのは甚だけしからん」ときつく叱っている。

天皇の意志とあって、弱気になった南陸相や陸軍首脳は武力行使を当面押し止めるよう指示するため参謀本部建川作戦部長を15日、満州に派遣した。建川は決行を927日と知っていた。建川は飛行機も使うことができたのに関釜連絡船と朝鮮半島内の鉄道で移動し時間をかけて向かった。それを陸相は許している。

   参謀本部橋本欣五郎中佐(桜会)は関東軍司令部に「事暴かれたり、ただちに決行すべし」と電報を打った。東京からの連絡を受け石原らは決行の日を繰り上げて18日夜とした。軍首脳は武力行使を来春と理解していたが、この早期の謀略実行については陸軍中央の永田・岡村らの一夕会のみならず、桜会の橋本や宇垣系の建川も9月下旬と認識していた。

   建川は918日夜奉天駅に着き、板垣と花谷の歓迎の酒宴中に柳条湖爆破が行われ、満州事変が開始された。  

   なお、建川は日露戦争に出征、騎兵の機動力を生かした建川挺進斥候隊長としてロシア軍勢力地の奥深くまで1200kmを走破、決戦である奉天会戦の勝利に貢献した。「少年倶楽部」に連載された山中峯太郎の小説「敵中横断三百里」の主人公のモデルである。また、当時の金谷範三参謀総長も日清・日露戦争に出征しており、南次郎陸相も日露戦争に従軍している。今後彼らと相対する永田鉄山陸軍省軍事課長は、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒業の幕僚、軍政家であり、実際に前線での戦闘指揮経験はなかった。

 

         

9月18日午後10時すぎ 遂に満州事変が勃発した。

 

 

 関東軍の謀略により奉天近郊の柳条湖にて鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として出動、張学良の軍事的根拠地である奉天を一挙に占領した。この時張学良は北平(北京)に居た。関東軍は張に対する反乱を華北で起こさせ、張はその鎮圧のため精鋭11万を率いて満州から万里の長城を越えて華北にいた時であった。満州事変は関東軍による手の込んだ謀略により開始された。翌日には長春、営口など南満州の主要都市をほとんど占領した。当時、関東軍は約1万人、張学良の率いる東北軍は約19万人と大差があり、関東軍は朝鮮軍に満州への出兵を依頼していた。

 

なお、この日は第12回国際連盟総会開催中であった。

 

 

 

 

 左は国立公文書館にある「昭和六年九月十八日夜生起ノ事変二係ル帝国政府ノ所信声明ノ件ヲ定ム」という文書である。

 

左頁には、「中国軍隊の一部は南満州鉄道の線路を破壊し我が守備隊を襲撃し之と衝突するに至れり」などあり、事変発生時の詳細が記してある。「日本のあゆみ:国立公文書館」のホームページにて本誌の全文を読むことができる。年表から満州事変で検索する。

   

  

   直後の陸軍中央の動きはどうであったのか。

 

919日 

   現地から午前1時過ぎ、中国軍により奉天(瀋陽)郊外柳条湖付近での満鉄線爆破により日中部隊が交戦中との報告が届いた。    

   午前7時、陸軍省・参謀本部合同の省部首脳会議が開かれ対策を協議した。出席者は陸軍省杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、参謀本部から二宮治重参謀次長、梅津美治郎総務部長、今村均作戦課長(満州出張中の建川美次作戦部長の代理)、橋本虎之助情報部長、および実質的に局長待遇であった陸軍省永田鉄山軍事課長であった。「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」とし、一同異議なく、閣議に兵力増派を提議することを決めた。省部首脳会議の決定を受け、今村ら作戦課は朝鮮軍の応急派兵、本土からの動員派遣の検討に入り、永田ら軍事課は閣議提出案の準備にかかった。

   満州での発生事件を調査確認することなく、直ちに関東軍の行動を是認し増派まで決定したこの素早さは、会議の主要メンバーが近々の満州での軍事行動を承知していたからできたことである。

   午前8時半頃、朝鮮軍司令官林銑十郎より、満州への越境出動を準備中との報告が入った。朝鮮(併合により日本領)から中国への国外派兵決定には内閣の承認と天皇の裁可と奉勅命令が必要であった。また閣議においてそのための経費支出が認められなければならなかった。参謀本部は部隊の行動開始を待つよう指示し、至急閣議において陸相提議により朝鮮軍の満州への越境派兵の承認をえようとした。

   午前、南陸相は天皇へ奉天付近にて日支両軍衝突、奉天市の北郊外にある中国軍兵舎・北大営を占領した旨を奏上。午後、金谷参謀総長が奉天占領と長春攻撃を奏上、朝鮮軍の満州派遣を抑止した旨も奏上した。天皇へはかなり詳細にわたり陸相や参謀総長から作戦行動について帷幄上奏している。 

   午前10時、臨時閣議が開かれた。南陸相は中国兵が鉄道を爆破し、それを防ごうとした関東軍への攻撃に対する「正当防衛」であると報告するが、林久治郎奉天領事からの電報では、「軍部の計画的行動に出でたるものと想像せらる」とあり、南陸相は朝鮮軍増援を提議できなかった。閣議では国際関係への配慮から事態不拡大方針を決定した。  

   午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長の三官衙首脳によって、本件を「満蒙問題解決の動機となす」とする方針が合意された。それは自衛のためであり、条約上認められている権益を確保するためとの方針であった。

   午後2時、三長官会議(南陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監)が開かれ、陸相から閣議決定の「現在以上に拡大せしめざるよう努む」旨が報告された。それを受けて金谷参謀総長は参謀本部部長会で旧態復帰を指示した。これに対して、今村作戦課長は「矢はすでに弦を放たれたるものなり」として反対意見を具申したが、金谷はそれを退け「必要の度を超えざる」よう本庄関東軍司令官へ指示した。幕僚の抵抗により指示電文の表現は弱くなっている。また、南陸相も事態不拡大の政府方針に留意して行動するよう本庄関東軍司令官に訓電した。

 この時点では閣議決定が尊重され、シビリアン・コントロールがまだ生きていたのである。しかしこれ以降は、軍の独走に次ぐ独走を追認することになっていった。

 午後、作戦課(今村課長)は、参謀総長の指示に反した「満州に於ける時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議(次長部長クラス)の承認を得ている。そこでは、満蒙諸懸案・中村大尉事件・満鉄爆破事件(柳条湖爆破)の一併(一括)解決を中国側へ迫ることを、陸軍大臣は「最後の決意」をもって閣議に提起すべきとした。また、関東軍の態勢を旧状に復帰させることは「断じて不可」であり、現状維持を内閣が認めないのなら陸相は辞職すべきで、これにより「政府の瓦解」が生じても懸念する必要はないとしている。陸相辞任後は後任を送らず、倒閣させるとの決意であった。さらに、事態の推移によっては「国家永遠のためクーデターを断行す」との意志も示している。ここで明らかなことは、作戦課を含む中堅幕僚達の立ち位置は、陸相の任免に止まらず、クーデターをしてまでも、自分たちの考えを実現するしかないと確信していたことである。陸軍においてはすでに下剋上状態が横溢している。

 なお、この時点での今村ら作戦課の考えでは、満蒙問題の一併解決が目的であり、全満州の領有までは考えていなかった。 

 夕方に、若槻首相は元老・西園寺公望の秘書である原田熊雄を官邸に招き、軍部の独走に歯止めをかけるため、西園寺やその影響下にある宮中重臣による天皇への働きかけを要請している。若槻らは、出先軍隊の暴走と陸軍中央の内部統制の動揺という危機に対し、天皇に頼らざるを得なかったのである。しかし、それは天皇の政治利用に他ならなかった。

 19日のうちに関東軍は奉天・長春を占領した。奉天には日本人22,050人、朝鮮人776人が居留していた。

  

920

 午前10時、三官衙首脳(杉山次官、二宮次長、荒木本部長)により、満蒙問題の一併解決を期し、今後「軍部案」に同意しない場合は、「政府が倒壊するも毫も意とする所にあらず」との方針と旧態復帰拒否が確認された。

 また、永田ら陸軍省軍事課は、前日の参謀本部作戦課の「満州に於ける時局善後策」をもとに「時局対策」を策定し、三長官会議(南陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監)の承認を得ている。そこでは、事態不拡散の閣議決定に反対する必要はないが、それと軍の行動とは別個の問題であり、軍は任務達成のためには「機宜の措置」をとるべきとし、「中央においてその行動を拘束せず」とした。また、これを機に満蒙問題の一併解決を「最後の決意」をもって内閣に迫るべきだ、ともしている。永田らの主張を、南も金谷も、強い突き上げにより、やむなく承認したものと思われる。 

 遂に、開戦にともない、内閣の一員としての陸相、天皇直属の参謀本部総長は、揺れ動きつつも、これを機に満蒙問題を一併解決するためには、軍による外なく、軍のその任務達成のためには、政府方針にとらわれる必要はない、としたのである。この政府意向を無視し、独走を開始した軍部の動きを止められるのは、軍内部の新しい強力なリーダーの出現によるか、または、統帥権をもつ天皇のみとなった。

 関東軍は当初全満蒙領有を計画していたが、事変勃発直前に来満した建川作戦部長による、張学良に代わる(中国主権下の)独立政権樹立が国策であるとした説得を受け入れた。建川は対ソ連考慮から北満への派兵に反対していた。

 

921

 午前10時~午後4時、閣議において、「事変」とみなすことに決し、満蒙問題の「一併解決」には意見の一致をみたが、関東軍の態勢や朝鮮軍の派兵については何も決定できなかった。事変としたことにより、日本は宣戦布告なしで中国との事実上の戦争状態に入った。  

 石原・板垣は朝鮮軍に国境を超えての増援を要請していた。21日午前950分、関東軍は独断で吉林へと出兵し、夕方には確保した。関東軍は満鉄沿線以外には条約上駐兵権を有しておらず、これは権限を越えた出兵であった。これに呼応して午後1時、朝鮮軍も国境を越え満州に入った。林銑十郎朝鮮軍司令官による独断越境である。関東軍・朝鮮軍ともに、政府無視だけではなく、陸軍首脳の承認も得ない独断専行であった。

 天皇の許可なく軍司令官が部隊を国外へ動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当するものであった。

 奈良武官長日記によれば、午後、金谷参謀総長は天皇へ「待機命令にも拘らず軍司令官の独断専行に依り既に越境、奉天に進出せる旨の報告在り、誠に恐懼に堪えざる」と奏上している。 

 開催中の閣議に越境が報告されたが、対応は決めきれずに散会した。越境の知らせを聞いた陸軍省・参謀本部内に於いて、翌日開催予定の閣議で林朝鮮軍司令官の独断越境は大権干犯として問題化するときは、陸相、参謀総長ともに辞職すべきと、永田軍事課長も今村作戦課長も主張していた。当時の永田軍事課長の存在と影響力は他を圧していた。

 後に、林銑十郎朝鮮軍司令官は “越境将軍”とよばれ、1932年に大将に進み,34年斎藤実内閣の陸相に就任して統制派の立場に変化した。こうした林の性格を石原莞爾は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と評している。

 張学良は東北辺防軍に対し、事変勃発後日本軍への抵抗を禁じ、在満部隊に戦闘不拡大を命じていた。蔣介石は共産党殲滅を優先し、これを支持した。当時国民政府は共産軍との戦闘と揚子江の大水害に見舞われていた。

 21日、国民政府は国際連盟に日本の「戦争の脅威」として提訴した。

 

922日 この日若槻政府の姿勢は大きな分水嶺を越えた。

 9時半、首相は参内し前日の閣議内容を上奏した。天皇から若槻首相へ不拡大方針を徹底するよう指示があった。天皇の意向によりその旨は、若槻首相から陸相へと、奈良侍従武官長から参謀総長へと公式ルートで伝えられた。不拡大の閣議方針を徹底すべきとの天皇の発言は陸相と参謀総長にとっては重いものであった。そのため22日、金谷参謀総長・二宮参謀次長は関東軍に「事態を静観」するよう訓令した。これに対して軍中央の幕僚達は「側近者の入れ知恵」によるものとして憤慨し、「君側の奸を討て」となった。

この日、若槻首相は参内上奏後の閣議において、朝鮮軍の独断出兵に対し、不拡大方針は堅持しつつも既成事実を追認し、「既に出動せるものなるをもって、閣僚全員その事実を認む」「これに要する経費を支出す」と決し、午後、奏上した。その後、参謀総長から朝鮮軍の満州派遣追認について帷幄上奏、天皇の裁可を得るが、奈良日記によれば、天皇は「此度は致方なきも将来充分注意せよ」と命じている。 

関東軍・朝鮮軍の独断専行は追認された。遂にこの時点から、政府ばかりでなく天皇も事態の追認に次ぐ追認が始まった。

 

以降、関東軍は朝鮮軍の応援を得て、吉林、錦州、ハルピンと占領地を拡大し、翌年2月までには北満州を含む満州全土を制圧した。

 

 

満州事変へ及び軍部独走へと至る経緯は以上のとおりである。

  

 

結論に入る。

 

当時の軍部にとっては、張学良を中心とする中国での過激な抗日排日運動のため、条約で認めあった中国での権益維持と多くの在留邦人の安全確保・保護が急務となっていた。そしてそれが結果としては隠れ蓑となったが、永田鉄山・石原莞爾の国家改造による国家総動員体制と資源自給自足体制の確立のためには、我々軍部が具体的に動くしかない、中国への進出が不可欠との決意が軍部内に充満していた。その実現への最初の第1歩は、満州の確保であり、それは次の華北・華中に於ける資源確保への橋頭堡とするためでもあった。そして遂に、陸軍中央の幕僚ら一夕会のみならず、軍首脳の宇垣閥も権益を守るためには満州での武力行使を承認したのである。全陸軍は一致して武力行使実施の方向にまとまった。武力行使という暴走に固まった軍部内部では、それを押し止める人材はもはや居なかった。

 

当時の民意はどうであったのか。先に述べたとおり、東京帝国大学学生へのアンケート調査でも、「満蒙への武力行使」は88%の学生が「正当」であると答えている。したがって、当時の国民多数の意識には、ある種の戦争への了解があったことになる。

 

政治はどうか。政争に明け暮れる政党、政治家は軍からも国民からもあてにされていなかった。5年余りの間、政府は、中国の自主的立場の尊重と内政不干渉の幣原外交により、中国に於いて動きがなく、権益の多少の棄損黙認と在留邦人の引揚げなどは、権益と安全確保にはまったく機能していないと見られていた。また、政府の軍部への対応実態は、関東軍の独断専行準備を横目で見ながら、時に注意を与えるのみで、軍の勝手な動きに踏み込んで抑えることまではできなかった。一方の軍も政府無視を決め込んでいた。実際、若槻内閣は軍を制御できず8カ月で総辞職した。加えて、「統帥権の独立」という制度の存在が大きかった。政府にとって、現地軍の作戦行動は管轄の外であったが、それを乗り越えるような、極めて剛腕な政治家の出現も見込まれず、したがって、政府や政治家が事前に事変を止めることは無理であったと言える。濱口首相の暗殺や、クーデター未遂の3月事件などが影響を与えていたことも事実である。

  

歴史にIFはないが、もし、政府に押し止める可能性があったとすれば、事変勃発直後に、朝鮮軍の満州への「国外出兵」は統帥権外の政府承認事項であり、政府不承認とし、関東軍への予算措置を拒否したなら、満州事変は消し止められたとの意見がある。しかし、現実としては、陸軍省・参謀本部の首脳も幕僚も一致して、朝鮮軍の派遣と経費の閣議承認を求めていた。閣議承認が得られなければ、陸相・参謀総長の辞任が合意されており、陸軍から後任を送らねば「軍部大臣武官制」により内閣は倒壊する。若槻内閣は、既に開戦してしまっているというこの非常時下において、実務上も内閣を崩壊させることなどしてはいられなかった。そのためには承認するほかなかったのである。この「軍部大臣武官制」が無ければ、若槻は陸軍首脳を抑え、一夕会も抑えられたかもしれないが・・・。しかしそれでも、翌年の五・一五クーデターの時期が早まり、軍事政権化も早まっただけであろう。  

  

残る可能性は天皇しかない。

この陸軍の独走への大きな流れの中でも、張作霖爆殺犯人の河本大作大佐の処分問題で、天皇の「逆鱗」に触れた田中首相は7月に総辞職し、9月に死亡した。当時29歳であった天皇の影響力は田中に対しては大きなものであった。しかし、事変勃発後、陸軍省・参謀本部首脳の言う、自衛のためであり、条約上認められている権益を確保するためとの主張を受け、天皇は不拡大方針を指示したが、関東軍と朝鮮軍は独走を続け、陸軍省・参謀本部の首脳も既成事実を追認していった。そうなると天皇も、もはや追認するしかなかった。

その後の1932年(昭和7年)8月、満州事変を引き起こした本庄繁関東軍司令官は、関東軍司令長官退任後東京へ戻り、関東軍の軍状について天皇に拝謁し報告した。天皇からの「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」との御下問に対し、本庄は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ」と答えたと言われている。天皇は「そうか、それならよかった」と述べている。もはや目的のためには天皇さえも欺くことがまかり通っていたのである。軍中央は天皇の意向をそれなりに配慮はしていたが、現地軍は天皇よりも作戦重視であり、勝つための戦闘に向かって独走した。それが国のためであり、天皇のためであるとして。

なお、翌年の4月、本庄繁の侍従武官長就任にたいしても、天皇は難色を示した。にもかかわらず、恒例通り陸軍により任命されている。もはや天皇も、陸軍と現地軍の流れを押し止めることはできなくなっていた。

 

 

   分岐点4 周到に、そして着々と準備された満州事変を、なぜ事前に止められな

       かったのか?!

 

  結 論  もはや、軍部独走の大きな流れを政治家も天皇も止めることができな

      かった。国民はこぞって軍部に期待した。

    

 

 

 

その後のことになるが、天皇の軍部による独断専行を押し止める可能性があったとすれば、満州事変開戦1年半後の熱河作戦に対する天皇の「総帥最高命令に依り之を中止したい」との発言の時であった。極めて重大な天皇の発言である。ここで軍部独走を止められれば、満州国建国までで満州事変は終わり、日中戦争へは至らなかったと思われる。この部分は次の「分岐点5 天皇は「統帥最高命」発動により熱河作戦を阻止しようとした」へ譲ることとする。

 

 

 

蔣介石:日本で青年期の4年間を過ごしている。1906 19 歳で日本の清華学校(語学専門学校)に留学し、この時孫文に会っている。その後1908年東京振武学校(陸軍士官学校留学生の準備教育学校)へ3年間再留学し、その時中国革命同盟会へ入会している。その後新潟県高田の第十三師団十九連隊へ士官候補生として在籍していたが、辛亥革命勃発(191110月)に伴い急きょ帰国し革命に加わった。

                写真は日本での蔣介石

 

 

       参考:「孫文による中華民国成立、軍閥による混乱、統一に至るまでの経緯」8

           ご覧ださい。

 

                                                                             以  上

 

  

 

分岐点5「天皇は『統帥最高令』発動により満州事変・熱河作戦を阻止しようとした」    

 

     満州事変:19319月柳条湖事件~19335月塘沽停戦協定成立

    

 

 19319月、満州事変開始とともに関東軍は東三省と熱河省・内蒙古を加えた満州に、清朝最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)を首班とする「新政権」樹立を具体化し始めた。9月末までには東三省の、奉天省(委員長:袁金鎧)、吉林省(主席:煕洽)、黒竜江省(委員長:張景恵)に親日政権が樹立された。1932216日、東北行政委員会(委員長:張景恵)が組織され、218日には満洲の中国国民党政府からの分離独立を宣言した。31日には熱河省の湯玉麟、内蒙古の凌陞も加わった東北行政委員会が、元首として愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した。

 

 本来関東軍は、満州「領有」を目指しており、当面の「新政権」樹立としていた。そのため、その進め方はかなり強引であり、反発をかっていった。成立した満州国は東三省と熱河省、内蒙古がその領域であると宣言していた。しかし、熱河省の湯玉麟は満州国独立宣言に署名し、参議府副議長兼熱河省長に任命されたが、あいまいな態度をとり続けていた。内蒙古の凌陞も後に蒙古独立運動へと進んで行った。一方で、張学良軍も長城を越えて熱河省を脅かしていた。

 

  中国・国民政府の訴えを受けて、国際連盟からのリットン調査団は193210月2日に報告書を世界に公表した。日本は事前に報告書の全貌をつかみ、報告書公表前の915日に「満洲国」を承認した。リットン報告書の骨子は、満州事変は日本の侵略行為であり自衛のためとは認定できないとし、満州国は日本による武力を背景に成立したものであるとした。軍部は侵略行為と断定され満州国も否認されたとして強く反発した。

 報告書ではこの紛争解決のための提言として、中国主権下ではあるが東三省自治政府を設け、日本を主とする列国の共同管理下に置くことを提案していた。また、日本軍に対しては事変にて侵攻した満州から撤退すべきであるが、従来権益の南満州鉄道沿線については除外された。中国における列強の利害関係の共通性から日本への理解を示し、日本の妥協を期待した内容になっていた。翌年2月24日、リットン報告を受け、国際連盟は総会において日本の侵略行為と認定し、事変にて侵攻した満州からの撤兵を勧告するなどの決議案を採択した。松岡洋右全権以下の日本代表団は総会から退場した。

 軍部にとっては、満州国を既に建国し、全満州を手に入れているこの現状を放棄するわけにはいかなかった。なお国際連盟は、今件における満州とは東三省が対象であり、熱河省や内蒙古地区は対象の外であった。そのため、満州(東三省)から日本軍が熱河地域に侵攻することは、新たに中国への戦争を仕掛けることになる。それは国際連盟規約第16条の対象となり、「すべての連盟国に対し戦争行為をなしたるもの」と見なされ、連盟加盟国全体から制裁を受け、除名される可能性があった。

 

 熱河省の完全平定のため19331月、武藤関東軍司令官は熱河平定作戦を決定し、内閣も承認した。

  しかし、熱河作戦開始を承認した日本政府は、その作戦が国際連盟の規定により制裁を受ける可能性があると気づき、政府は作戦実施に二の足を踏んだ(後述)。

 

その熱河作戦開始を止めることはできなかったのか。

 

1)熱河作戦の中止は、軍部自らでは無理だったのか。

 陸軍の実権は既に一夕会系中堅幕僚達に握られていた。彼らの元々の狙いは、永田鉄山・石原莞爾構想(後述)へと進むために、謀略をしてまでの満州全土の確保にあった。従って、連盟決議の受け入れは当然に、もはや無理であった。満州国内の治安対策のための熱河作戦へ、そしてその後、満州の資源だけでは足りず、華北分離工作へと進んでいく道を走りだしていた。残念ながらこの大きな流れを止められる軍内部のリーダーは存在していなかった。

   

2)政治家では軍を主導できる人材はいなかったのか。

 満州事変勃発前の19314月に成立した民政党第2次若槻禮次郎内閣は、事変勃発後の関東軍と朝鮮軍の作戦行動を、追認に次ぐ追認をせざるを得ず、12月には軍部を抑えられず8カ月間で総辞職した。次に政友会犬養毅内閣が成立したが、一夕会の工作により陸軍大臣には荒木貞夫が就任し、皇道派(天皇親政下での昭和維新を目指す急進派)の中心人物である彼により、陸軍の性格が大きく転換した。犬養はそれを押さえようとはしたが、翌年5月、五・一五事件(海軍急進派青年将校を中心とするクーデター事件)により殺害された。最後の政党内閣であった。 

 ただ一人の元老・西園寺は、もはや政府や政党政治家では軍を押さえられないとして、海軍穏健派の長老であり政党に属していない、引退していた斎藤実を奏薦、19325月に斎藤内閣が成立した。しかし、陸相には荒木が留任した。

 

 6月、衆議院本会議で2大政党の政友会と民政党の共同提案により、満州国承認決議を全会一致で可決した。その流れの中で斎藤内閣は連盟脱退も辞せずとし、リットン報告書公表前の9月に満州国を正式に承認した。政党も政党政治家も軍部に追随していた。

 

 

 

 

 荒木 貞夫:陸軍大将、政治家

国体思想(万世一系の天皇によって統治される優秀な国柄を表す概念)や精神主義を説き右翼や血気盛んな青年将校のカリスマ的存在。皇道派の中心人物。

荒木自身は計画に加わっていなかったが、1931年(昭和6年)10月、陸軍急進派桜会によるクーデター未遂事件(十月事件)は、荒木を首班とする軍事政権樹立を企てていた。その後、一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで1931年(昭和6年)の犬養、32年の斎藤内閣の陸軍大臣となる。陸相時代の荒木が国軍を皇軍と称し、皇道精神を唱えたことから皇道派という呼称が生まれた。陸相になった荒木は自分の閥で要職を固める派閥人事を断行した。33年陸軍大将。しかし、自分で育て利用してきた過激青年将校たちを制御できなくなり、1934年(昭和9年)1月、荒木は病気を理由に陸相を辞任した。1936年(昭和11年)の二・二六事件の際に青年将校達に同情的態度をとったとして、皇道派を統制しようとした統制派による粛軍により、荒木と眞崎甚三郎阿部信行林銑十郎4大将は予備役とされ、統制派が発言力を強めた。その後荒木は、第1次近衛内閣、平沼内閣の文相を務め、皇道教育の強化、教育の軍国主義化をすすめた。戦後、荒木はA級戦犯として終身刑の判決を受けるが、病気により1955年(昭和30年)仮釈放され、1966 (昭和41)没、88

 

 

3)国民はどうだったのか。

    1929 10月、ニューヨークで株価大暴落(暗黒の木曜日)が発生し、通常の循環的な恐慌とは異なる「世界大恐慌」の始まりとなった。1932年には世界の工業生産は半減した。日本においても当初は、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していたことから、今回の恐慌も通常経済の範囲内での出来事と考えていた。主要国に後れを取っていた金解禁を、不運にも暗黒の木曜日の翌月、浜口雄幸民政党内閣・井上準之助大蔵大臣(元日本銀行総裁、元大蔵大臣)は解禁するとの大蔵省令を公布した。「嵐に向かって窓を開けた」状態となり、日本経済は危機的状態に陥った。完全な失政であった。

     大恐慌に陥った米国は19306月にスムート・ホーリー関税法を制定し、2万品目の輸入品に平均50%を超す関税をかけた。米国発の保護主義は一気に世界に拡散した。続いて19328月、イギリス連邦のポンド・ブロック政策により保護貿易が採用され、他国を締め出した。1933年にはフラン・ブロック、ドル・ブロックなど、閉鎖的なブロック経済圏が形成されていった。持たざる国の日、独、伊などは、自給自足体制確保のために、軍事的侵略の道を進まざるを得なくなった。

 

    日本では、満州事変による軍需費の拡大により(満州景気)、主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した。1934年~36年は、戦前では最も豊かな時代であったと言われており、都市の市民は浮かれた。一方で、農村は疲弊していた。世界恐慌により生糸の対米輸出が激減し、朝鮮や台湾からの米流入による米価下落により、農村は壊滅的な打撃を受けた。農家の年平均所得は、1929年に1,326円あったものが、31年には650円へと半分以下に減ってしまっていた(農林省農家経済調査)。加えて1931年には東北・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれ、貧窮のあまり欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。19333月には昭和三陸津波、1934年にも記録的な大凶作となって、農村経済の苦境はその後も続いた。 農作物価格が恐慌前年の価格に回復するのは1935年であった。

    この頃、青年将校達が営内で農村出身の召集兵と交わり、兵の家庭の貧窮や農家の飢饉を知るに及んで、財閥が私利私欲を追求し、政党は財閥の援助をうけてこれを庇護し、これらが国を危うくしていると考えた。彼らはしだいに過激な行動へと向かい、皇道派と呼ばれた。国民も政治家はあてにならず、軍による満州景気を支持していた。

 

4)軍の独走を止める可能性が残ったのは天皇ひとりであった。

    大日本帝国憲法において天皇大権の行使にかかわる大権は35におよぶ大権事項が定められており、広範な強力なものであった。しかし、その運用は憲法に従う立憲君主制が原則とされており、実際の運用は元老や各輔弼機関が責任をもっておこなうものであった。

    昭和天皇の天皇大権に関する立ち位置も、いったん輔弼機関(内閣及び参謀総長・軍令部総長)が決めたことには介入しないというものであったが、張作霖爆殺事件の際、天皇の叱責により田中内閣が総辞職を余儀なくされたことは、結果として政治介入となり、以来、いっそう天皇の政治不介入は強いものとなっていた。しかし、満州事変における軍部独走に対しては、天皇はそれを乗り越えて何度も軍の暴走を押し止めようとした。そして遂には19332月の熱河作戦を阻止しようとして、「統帥最高命令発動」の意思表示に至ったのである。

 

    天皇の軍に対する統帥大権については、大日本帝国憲法11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるのみで、それ以上の条文はない。しかし、天皇の統帥大権は、明治憲法制定以前から国務大臣の輔弼の外にあり、一般国務より独立したものとして運用されてきた。それは山縣有朋が、政治から軍隊を隔離するために、1878 (明治11)12 月に天皇直属の参謀本部を創設*したことに依るものである。この時点から統帥に関し勅許を仰ぐ場合は、完全に内閣から独立した運用が始まり、参謀本部長から直接奏上(帷幄上奏)し、勅許されるようになった。

    統帥には軍令と軍政があり、軍令は軍事行動に関する指揮・統率ないし作戦・用兵に関することで、参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海軍)以下が輔弼機関である。軍政は軍隊の組織編成・人事・予算などに関することで、内閣の陸・海軍大臣以下が輔弼機関であった。

    独立した統帥権における軍令は、当初は参謀総長・軍令部総長による輔弼および帷幄上奏の範囲であったが、その後しだいに拡大解釈され、陸軍・海軍大臣などの軍政も統帥権輔弼者に含まれるとして帷幄上奏するようになった。そのため、軍令・軍政と内閣との間が不明確になり、特に外交面において、作戦優先の軍部と対外関係配慮の内閣との対立を生じた。

 

*参謀本部の独立:当時陸軍卿であった山縣有朋が西南戦争の翌年、近衛 砲兵隊が給料への不満(西南戦争での論功行賞が遅れていた)から起こした竹橋騒動を見て、当時の自由民権運動が軍隊内へ波及しないよう、また、議会勢力から軍隊指揮権を政治的に防御しようとした。明治11(1878)12 月の参謀本部条例制定により、陸軍省の別局であった参謀局が廃止され、「参謀本部」として陸軍省から独立し「天皇直属」とした。その後、明治憲法は明治231890年)11 月に施行された。

 

    以下、満州事変から熱河作戦、塘沽停戦協定に至る、天皇の戦争拡大阻止への様々な努力の経緯を時系列にレポートする。

 

 

1931年(昭和6年)

19316月に陸軍省と参謀本部は「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。張学良排除にはもはや武力行使しかなく、来春までにその準備を完了するとした。これは参謀本部・陸軍省首脳の承認を得て、関東軍にも伝達された。陸軍は満蒙問題の武力解決へ意思統一された。しかし、関東軍は早期実施、9月下旬を目途としていた。それを一夕会や中央の一部の幕僚達は知っていた。

 

911日 天皇の陸軍への暴走阻止への第1歩。

   11日、外務省の情報から陸軍の動きを懸念していた元老・西園寺公望は天皇にそれを伝え、天皇から南次郎陸相に軍紀に関し注意があった。「侍従武官長奈良武次日記・回顧録」によれば、「陛下より陸軍の軍紀問題並びに陸軍が首唱となり国策を引摺るが如き傾向なきや等に就いてご注意在り」と。南は「不軍紀のことなき様充分取締り居る旨奏上」したとある。南陸相の天皇への背信行為が始まる。

   しかし、天皇の意志とあって、弱気になった南陸相や陸軍首脳は武力行使を当面押し止めるよう指示するため、参謀本部建川作戦部長を15日、満州に派遣した。建川は飛行機も使うことができたのに関釜連絡船と朝鮮半島内の鉄道で移動し時間をかけて向かった。それを陸相は許している。天皇の威光も形だけのものになっていた。

 

918日 満州事変始まる

2220分頃、天皇の意志を無視して、関東軍は自らの謀略により柳条湖事件(南満州鉄道の線路爆破)を起こし、満州事変を開始した。

なお、この日は第12回国際連盟総会開催中であった。

 

19日 関東軍は直ちに奉天・長春を占領した。

  午前10時、臨時閣議が開かれ、国際関係への配慮から事態不拡大方針を決定した。

 

20日 永田ら陸軍省軍事課は、前日の参謀本部作戦課の「満州に於ける時局善後策」をもとに「時局対策」を策定し、三長官会議(南陸相、金谷参謀総長、武藤教育総監)の承認を得ている。そこでは、事態不拡散の閣議決定に反対する必要はないが、それと軍の行動とは別個の問題であり、軍は任務達成のためには「機宜の措置」をとるべきとし、「中央においてその行動を拘束せず」とした。また、これを機に満蒙問題の一併解決を「最後の決意」をもって内閣に迫るべきだ、ともしている。永田らの主張を、南も金谷も、強い突き上げにより、やむなく承認したものと思われる。 

   

これより陸軍は独走を開始する。

 

21日 陸軍省・参謀本部の承認なしで、関東軍は吉林へ侵攻し、朝鮮軍も国境を越えて満州に入った。

国民政府は国際連盟に日本の「戦争の脅威」として提訴した。

 

22日 この日内閣は大きく方向転換*をした。

朝、天皇は参内した若槻首相へ、19日の閣議決定した不拡大方針*を支持し、徹底するよう命じた。その旨陸相へも伝えるよう命じ、それは若槻から陸相へと、奈良侍従武官長から参謀総長へと公式ルートで伝えられた。 

しかし、参内後の閣議の議論を経て、若槻は朝鮮軍の独断出兵に対し、不拡大方針は堅持しつつ「既に出動せる」以上致し方なしとし、「これに要する経費を支出す」と決定した。午後、それを奏上した。その後陸相、参謀総長から朝鮮軍の満州派遣追認について帷幄上奏、天皇の裁可を得るが、天皇は「此度は致方なきも将来充分注意せよ」と命じている。

  

*不拡大方針:若槻内閣は関東軍の謀略であることを疑っていたが、自衛のためであるという軍の主張には反論できず、当初の軍事行動は認めざるをえなかった。しかしそれ以上の拡大は認めないという不拡大方針を閣議決定し、天皇もそれを支持した。  

 

関東軍・朝鮮軍の独断専行は、遂にこの時点から、政府と天皇の追認に次ぐ追認が始まった。

 

30日 南陸相が天皇の名を使った嘘の弁明をした。

枢密院において南陸相は、朝鮮軍の独断越境出兵は天皇大権干犯ではないかと詰問され、そのような作戦裁可はなかったにもかかわらず、天皇の裁可を得てある作戦の実行であると答弁した。南のその場しのぎの言い訳であり、枢密院での天皇の名を使った嘘であった。今件について奈良侍従武官長の日記によれば、同日、枢密院の報告を聞いた天皇から奈良へ作戦計画の存在について確認の御下問があり、奈良は明確に「陸相の弁明は誤り居れり」と答えている。

もはや南陸相にとって政府だけではなく、天皇の位置づけも軽いものであった。

同日、国際連盟理事会は、事件不拡大の全会一致決議を成立させた。

 

10月以降~

 

108日 関東軍は軍中央の許可なく、奉天を追われた張学良が仮政府を樹立した錦州

を爆撃した。 

1017日 陸軍・桜会によるクーデター未遂事件(十月事件)発覚。

1119日 関東軍は北満のチチハル(斉斉哈爾)を占領。

1127日 米国スティムソン国務長官は、もし日本が錦州を攻撃すれば、「米国の忍耐はその極限に達する」との声明を発した。

12月 7日 南陸相は錦州での交戦を容認した。

現地軍の戦闘状況からと陸軍内の激しい突き上げにより、支那軍との衝突に至ってもやむをえないとの指示をした。

 

もはや若槻内閣は、陸相も含めた陸軍独走へのコントロールは失われ、国際協調も事実上崩壊していた。

 

1210日 国際連盟理事会にて視察員の派遣を決定。

1211日 若槻民政党内閣は閣内不一致と軍部を抑えきれず突如総辞職。

1213日 犬養毅政友会内閣発足。最後の政党内閣となった。

陸相には一夕会の推す荒木貞夫中将が就任。

 

犬養内閣の荒木貞夫陸相就任から、続く斎藤内閣では荒木と林銑十郎が、次の岡田内閣では林銑十郎留任へと、一夕会が推す陸相が続いた。実権を握った一夕会系は、政党政治を評価せず、国際協調よりも満蒙問題解決優先であった。また一夕会は、陸軍の組織的な政治介入が必要だとしていた。陸軍における権力転換が行われたのである。陸軍の性格が大きく変わり、ここで出現した「昭和陸軍」が太平洋戦争へと主導していく。 

    

1226日 荒木陸相により錦州攻略命令。

関東軍の作戦行動を追認した。もちろん作戦上のことにて、これは内閣の承認なしである。

 

1932

13日 錦州を占領。   

17日 米国国務長官、抗議のスティムソン・ドクトリンを発表。

日本の満州占領地拡大に対し米国が侵略の結果を承認しないとするスティムソン・ドクトリンを発表した。しかし経済制裁などの実力行使は伴わず、イギリスも事態が満州に限られている間は黙認するという態度をとった。

18日 天皇は関東軍に勅語*を与えた。

満州のほぼ制圧が見えて来たこの時点で、陸軍から勅語を求められ、天皇はかなり苦しい文面の勅語を下賜した。「満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ、自衛ノ必要上…各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ…朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ス」と。自衛であり匪賊掃討としている。しかし、ここでは、関東軍の将兵を褒め称えており、関東軍や朝鮮軍の事変勃発以降の戦闘を天皇が肯定したことになってしまった。

       

*勅語:曩ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ、自衛ノ必要上、関東軍ノ将兵ハ、果断神速、寡克ク衆ヲ制シ速ニ之ヲ芟討(敵を平定する)セリ。爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ、各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ、克ク警備ノ任ヲ完ウシ、或ハ嫩江・斎々哈爾(チチハル)地方ニ、或ハ遼西、錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ、勇戦力闘、以テ其ノ禍根ヲ抜キテ、皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ。朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ス。汝将兵、益々堅忍自重、以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ、朕カ信倚(信頼)ニ対ヘム(こたえる)コトヲ期セヨ(決意せよ)。

 

1月~3月 関東軍は満州事変から満州国建国への流れに対する海外からの批判をそらすため、謀略により上海事変を起こす。

2月5日 関東軍は参謀本部の承認のもと北満ハルピン(哈爾浜)を占領。

 

日本軍は全満州の主要都市を支配下に置いた。荒木陸相の就任により、関東軍や一夕会系中堅幕僚が企画していた北満と錦州を含めた全満州の軍事的掌握が一挙に実現した。

 

229日 国際連盟リットン調査団来日。

3月 1日 リットン調査団来日中に、敢えて満州国建国を宣言。

リットン調査団が東京に着いた翌日の31日に関東軍は満州国建国を宣言させた。満州現地の東北行政委員会が、元首として愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した。

 

2月・3月 一人一殺の血盟団(首謀者井上日召)により、2月に井上準之助元蔵相が、3月に三井合名理事長団琢磨が暗殺された。

 

312日 犬養内閣として満州における独立国家建設案を正式承認した。しかしまだ、満州国自体を認証してはいない。

犬養は九ヵ国条約への配慮から、満州国の正式承認を回避していた。し かし、満州国内の日本側権限を正式なものとするためには、国家間の条約が必要であり、前提として日本政府による満州国の承認が必須であった。犬養のこの姿勢は陸軍にとって大きな障害であり、軍部急進派や極右勢力に強い反感を抱かせ、遂に、515事件により犬養は暗殺される。      

515日 五・一五事件*起こり犬養首相暗殺される。

満洲国承認に慎重であった犬養首相を殺害した。「君側の奸」として牧野伸顕内大臣邸も襲い、警視庁、政友会本部、日本銀行、三菱銀行なども襲った。一部の陸軍首脳は事前に計画を知っていたが、阻止には動いていない。日本は完全に法治国家を逸脱し、テロ・クーデター国家となっていた。非常に危険な状況に日本は落ち入っていた。

 

*五・一五事件:海軍青年将校・陸軍士官学校生徒らが首相官 邸などを襲撃し犬養毅首相を射殺した事件。100万を超える減刑嘆願書が寄せられ、判決は軽いものとなった。

 

526日 斎藤実内閣(退役海軍大将)成立、陸相には荒木が留任。 

政党内閣の時代は終わり、以降、挙国一致内閣*へとなる。    

8月  8日  関東軍司令長官本庄繁は退任後東京へ戻り、関東軍の軍状について天皇に拝謁し報告した。天皇からの「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」との御下問に対し、本庄は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ」と答え、天皇は「そうか、それならよかった」と述べている。天皇さえも欺くことがまかり通っていたのである。

827日 斉藤内閣は連盟脱退も辞せずとする方針を打ち出した。

915日 斎藤内閣は満州国を正式に承認した。  

         この時リットン調査団は調査報告書を北京で作成中であった。既成事実で調査団に対抗した。

102日 リットン報告書公表。

日本軍の行動および満州国は承認できないというものであった。

 

*挙国一致内閣:第30代齋藤實内閣から終戦時の第42代鈴木貫太郎内閣までの13代の内閣を指す。近衛首相は3回組閣しており、この間の11人の首相中8人が軍人出身者である。

  

 

  

      満州国の都市及び熱河省の省都承徳・北京・天津の位置

 

  いよいよ熱河作戦に入る。

 

熱河地方は満州国の一部ではあったが、抗日運動が続き、この紛争を利用して、張学良軍は失地回復を目指して熱河省へ侵入していた。熱河省は長城の北側ではあるが、北京のすぐ北に位置している。

当時、関東軍の満州国建国の構想の中には、対ソ連構想が大きな比重を占めていた。ソ連と相対するためには、背後の中国軍を長城の向こう側へ追い払い、名実ともに満州を中国本土から分離した満州国の安定が必要であった。そのための熱河作戦が始まる。

 

1933

1月11日 武藤関東軍司令官は熱河平定作戦を決定。

陸軍中央も関東軍も、そして政府も満州国内の一地域である熱河地方の治安対策のために軍隊を動かすだけだと理解していた。 

 

113  閣議で熱河作戦を承認した。

作戦自体を承認はしたが、関東軍の暴走を防ぐため、陸軍大臣・海軍大臣の入った閣議に於いて、熱河省から長城を越えて関内*への侵入を固く禁じるという決定を加え、それを敢えて文書化することもお互いに合意した。この合意は、軍部も長城を越えると対外的な軋轢を引き起こすであろうことを、充分に承知していたからである。

しかし、永田鉄山・石原莞爾構想*実現のためには、満州だけでは済まず、長城を越えて華北へと踏み出さざるを得ず、華北分離工作へと進んでいった。 

 

 

130日ヒトラー内閣成立

 

                 *関内:万里の長城の南側で、北京・天津を取り囲むようにある現在の河北省地域。

*永田鉄山の戦略的構想:次期戦争は世界大戦となり、長期持久戦になるとした。そのために国家総動員体制、資源自給体制の確立を目指し、総力戦体制構築へと向かった。重要資源供給先としては満蒙だけではたりず、華北、華中の確保が念頭にあった。

*石原莞爾の戦略的構想:持説の「世界最終戦論」により、将来、西洋の代表たる米国、東洋の代表たる日本による、世界大戦が起こり、その結果日本による「絶対平和」が来るとした。最終戦争への第一段階として満蒙領有論を唱え、満州事変を指導した。

  

永田鉄山:永田は陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業。実際に前線での戦闘指揮の経験はないが、幕僚、軍政家として本流を歩み「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才であった。陸軍省軍務局長・陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争により、1935812日(昭和10 年)、相沢三郎陸軍中佐に殺害された。51歳。

 

 

 

石原莞爾: 最終階級は陸軍中将。陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られるが、「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者であった。満州事変推進者。後に東篠英機と対立し、1941年(昭和16)予備役。東亜連盟(右翼的国家社会主義団体)の指導者。病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。1949年(昭和24年)815日死去、60

 

 

 

 2月 4日 天皇、熱河作戦を裁可。

閣議決定を承知していた昭和天皇は閑院宮載仁参謀総長からの熱河作戦裁可上奏に対して、「万里の長城を超えて関内に進入することなき条件」の下で実行を認可した。

奈良侍従武官長日記によれば、この日午前、「閑院宮載仁参謀総長拝謁、聖上は対熱河作戦は万里の長城を越えて関内に進入することなき条件にて認可する旨殿下に仰せられ、殿下も亦断じて関内に進入せしめざるべき旨奉答せり」とある。しかし一方陸軍側では、参謀本部の実質的指導者であった眞崎参謀次長自らが「(外交的手段で解決に至らなければ)兵力を以て為し得る限り直路平津地方(北平(北京)・天津地方)を衝く」として、長城線以南への侵攻を考えていたのである。天皇の意向をまったく無視する方向を眞崎は目指していた。 

 

2月5日 関東軍は参謀本部の承認のもとハルピンへ侵攻、占領した

これで日本軍は全満州の主要都市を支配下に置いた。

 

中国は満州事変当初には国際連盟規約第11条「戦争の脅威」で日本を提訴していたが、上海事変が加わり、第15条「聯盟理事会の紛争審査」(国交断絶にいたる虞のある紛争が発生し・・)で訴えた。さらに紛争が進み次の第16条「制裁」に至れば、「第15条による約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然、他のすべての連盟国に対し、戦争行為をなしたるものと見なす」とある。連盟は満州国を認めておらず、中国領の熱河地域に日本軍が侵攻すれば、新たに中国への戦争に訴えることとなる。それは第16条の対象となり、すべての連盟国に対して戦争行為をなしたるものと見なされ、通商上・金融上の制裁を受け、除名も避けられなくなる可能性があった。

斎藤首相は、この連盟の動きに危機感を抱き天皇へ直訴する。

 

28  斎藤首相が天皇に裁可取消しを懇願。

午前、斉藤首相が天皇のところに駆け込み、熱河作戦閣議決定を取り消し、天皇の裁可も取り消して欲しいと懇願した。

奈良侍従武官長日記によれば、午前、「御召に依り拝謁、陛下より本日斎藤首相の申す所に依れば熱河攻略は聯盟の関係上実行し難きことなれば内閣としては不同意なり、本日午后閣議を開き相談する積りとのことなれば、過日参謀総長に熱河攻略は止むを得ざるものとして諒解を与え置きたるも之を取消したし、閑院宮に伝えよとの御仰せあり」。これに対し奈良武官長は明後日閑院宮拝謁の予定があり、その時に直接仰せになるようにと、この天皇の依頼を引き受けなかった。

 

29日 閣議で熱河作戦承認の取り消しはできず。

閣議では陸相の主張に押し切られ、熱河作戦承認の取り消しはできなかったと天皇へ伝わる。 

同日、張学良は熱河攻略を決意し、南京政府も加わった多数の正規軍を熱河に侵入させた。

 

210日 天皇へ参謀総長から閣議での変更はなかった旨報告。

奈良日記によれば、この日、天皇から閑院宮参謀総長に「熱河攻略は内閣にて能く承知し居らざりしやの旨、尚中止し能わざるや」との思召しがあったが、参謀総長は閣議での変更はなかったと回答している 

 

211日 紀元節 天皇自ら「統帥最高命令」発動を下問。

奈良日記によれば、「御召しに依り拝謁せしに御機嫌大いに麗しからず、本日総理大臣は熱河作戦を敢行すれば聯盟規約第12ママに依り日本は除名せらるゝ恐れあり、夫故中止せしめんとするも既に軍部は御裁可を得居るとて主張強く中止せしむるを得ずと申居れり、就いては統帥最高命令に依り之を中止せしめ得ざるやと稍興奮遊ばされて仰せあり」。しかし、奈良から天皇へは「陛下の御命令にて之を中止せしめんとすれば動もすれば大なる紛擾を惹起し政変の因とならざるを保し難し、依て慎重熟慮遊ばされんことをお願いせしも仲々御承知あらせられざりし」とある。天皇は懸命に統帥大権発動により作戦を中止しようとしたが、侍従武官長の奈良は不服従であった。明治憲法下の立憲体制では大元帥である天皇でも、統帥部の輔弼とその副署がなければ大権を行使でず、それを知る奈良や宮中側近が止めたのである。また、元老・西園寺も一度裁可したものを取り消してはならないとしている。天皇でさえ暴発する輔弼機関・軍部の独走を止めることができないのだ。 
 奈良の返答は、前年、血盟団により井上準之助元蔵相と三井合名理事長団琢磨が、五・一五事件では犬養毅首相が暗殺されていることもあり、熱河作戦を天皇が止めれば、首相が殺されるか、軍によるクーデターが起こるとしている。結局、天皇は万里の長城を越えないことを条件に、統帥最高命令の発動を見送った。自分が何を言っても、統帥大権の発動ができない、もはや軍部独走は止められない、と天皇は悟った瞬間であった。

 

実際にもこの後、同年に右翼のクーデター未遂(神兵隊事件)、翌 34年には陸軍皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒のクーデター未遂(十一月事件)、35年には統制派永田鉄山軍務局長斬殺事件、そして36年の二・二六事件へとつながっていく。テロやクーデターなどは未然に断固防止しなければならないにもかかわらず、愛国の至情による行動なら、それを容認する風潮がすでに陸軍内にはできあがっていたことを示す奈良の対応であった。

 なおこの日、天皇は皇族の恒憲王・同妃敏子の欧米旅行を勅許したが、英・仏駐日両大使から時期が適さない旨日本政府へ伝えられ、中止となっている。国際関係はかなり悪化していた証である。

   

しかし、天皇は翌日も・・・

 

212日 天皇は熱河作戦にて万里長城を越えることは絶対に慎むよう再度命じた。

奈良日記によれば、奈良は拝謁し天皇から「参謀本部に熱河作戦の結果万里長城を越えることは絶対に慎むべき旨注意し之を聴かざれば熱河作戦を中止を命ぜんとす、之を取計ひとの仰せなり」とある。そのため、奈良は午後に眞崎参謀次長を呼び、「此注意を伝達し念を推したるに、次長は必ず聖旨に背違せざる旨言明」したとある。

天皇は、熱河作戦についてはやむなく妥協してしまうが、長城は越えるなと釘をさしている。昭和天皇は31歳であった。眞崎参謀次長をはじめ軍首脳は、天皇に対し面従腹背であり、出先の関東軍は作戦遂行のために必要な軍事行動は、自らの判断にて当然のこととして実行しようとしていた。しかし眞崎は、当面は長城線以南への侵攻は控えさせた。

話しは変わるが、今年は大政奉還から150年目に当たる。德川慶喜は1867 (慶応3)10 12日に二条城で老中以下に大政奉還の決意を伝え、14日朝廷に上表文を差出した。その時、徳川慶喜は31歳であった。

 

217日 斎藤内閣が熱河省への軍事侵攻を承認。 

斎藤首相は8日以来、熱河作戦の閣議決定と天皇の裁可を取消そうとしていたが、連盟脱退の方向になり、ここに至り改めて作戦を許可した。 国内ではリットン報告書受諾反対の世論が沸騰していた。

 

220日 斎藤内閣は、日本は自ら連盟を脱退すると閣議決定した。

斎藤内閣は、リットン報告書が総会で可決された場合は自ら連盟を脱退すると閣議決定し、上奏した。

2021日、武藤関東軍司令官は熱河作戦開始に先立ち、長城を越えてはならないとの指示を各兵団長に伝達している。

 

221日 天皇、4月からの奈良の後任侍従武官長を前関東軍司令官本庄繁とする案に懸念を表明。

「昭和天皇実録」によれば、この日天皇は、後任侍従武官長を前関東軍司令官本庄繁とする案について懸念され、参謀総長に御下問になる。参謀総長より荒木陸相の推薦と満州事変に対する功績に鑑み本庄となった旨奉答。

その後天皇は奈良に、後任は本庄にてやむを得ないが、なお内大臣と協議せよとも言っている。 

22日には、天皇は奈良に「満州事変の功績にも依るとのことなりしも其理由には不同意なり」と明言。奈良は内大臣を訪ね「唯軽く尚一応の考慮を陸軍大臣に促すべし」と話した後、陸相に会い「尚一応の考慮を促したり」とある。ここでは天皇の満州事変に対する意志の位置づけが明確になっている。しかし、奈良は天皇の意向に形だけの対応をしている。

陸軍は天皇の意志に配慮もせず、満州事変の英雄なら良いではないかとして、奈良も内大臣も陸相も、陸軍の都合を天皇へ押し付けている。もはや、天皇への配慮も有って無いような、形ばかりのものと化していた。

 

関東軍司令官本庄繁は、自らの謀略にもかかわらず自衛と称して駐留権のない満州各地へ侵攻した。陸軍刑法第35条「司令官が外国に対し故なく戦闘を開始したるときは死刑に処す」とあり、明らかに死刑である。しかし彼は、後には陸軍大将、男爵に至る。また、林 銑十郎朝鮮軍司令官は軍を無断で満州に進め、越境将軍の異名をとった。確実に死刑である。しかし、なんと1937年(昭和12年)に彼は内閣総理大臣になっている。軍部による統制が日本の全てとなって国を覆っていった。 

 

本庄 繁:関東軍司令官、侍従武官長、陸軍大将

     二・二六事件に関与したとして、事件後の「粛軍人事」で予備役に編入される。

その後、傷兵保護院総裁、枢密顧問官。194511月、GHQからA級戦犯容疑として逮捕命令が下り、1120日、陸軍大学校内の補導会理事長室で割腹自決した。70歳。

 

 

 

 

 

 

林銑十郎:朝鮮軍司令官、陸軍大将、内閣総理大臣

 1934年、斎藤実内閣の陸相に就任して統制派の立場に立った軍政を推し進めた。37年広田弘毅内閣の総辞職後、大命降下は予備役陸軍大将の宇垣一成であったが、宇垣軍縮による不満から反宇垣派が陸軍では大勢を占め、陸軍から陸軍大臣を推薦せず、結局宇垣は組閣できずに大命を拝辞した。元老・西園寺はやむなく陸軍の推す林を挙げ、予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下、林内閣が成立した。林は第 70議会で突如抜打ち解散を断行。政党に打撃を与え一挙に親軍与党の拡大をねらったが大敗し、組閣後4ヵ月で総辞職に追い込まれた。林の名をもじって「何にもせんじゅうろう内閣」と皮肉られた。19432月に病死。66歳。

先代の広田内閣から続くこうした政局の混乱により、陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からの支持もあり、国民の期待の高かった近衛文麿の出現を願わせ、次の第1次近衛内閣に過剰な期待をかける原因ともなった。

   

  

 222日 熱河作戦が開始される。

国連脱退の閣議決定の2日後、関東軍・満州国軍は連合して熱河進攻作戦を開始し、310日頃には長城線へ達した。   

 

2月24日 リットン報告書を国際連盟総会は採択した。

リットン報告を受け、連盟は日本の侵略行為と認定し、事変にて侵攻した満州からの撤兵などを勧告する決議案を総会で採択した。松岡洋右全権以下の日本代表団はその場から退場した。

総会採決は、賛成42カ国、反対日本、棄権シャム(タイ)、投票不参加チリであった。熱河作戦が新たな侵攻とみなされ、連盟規約第16条「制裁」に至れば、「すべての連盟国に対して戦争行為をなしたるもの」として、制裁を免れない。その回避のためにも、連盟を離脱せざるを得ず、以後日本の外交は国際社会から孤立し、ドイツ・イタリアとの枢軸結成へと直進していくことになる。ドイツも同年10月には連盟を脱退した。

当時の国民感情は、好景気をもたらした関東軍への感謝・激励の風潮が高まり、中国・国際連盟を敵視する国家主義および排外主義の声が高まっていた。4月に帰国した松岡洋右は「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎されている。

 

日満連合軍は熱河省に進攻し、3月4日には熱河の省都承徳を占領、10日頃には長城線に達した。熱河省平定により、関東軍はその目的を達し、長城線を対中国の国境線として守備についた。  

 

327日 武藤信義関東軍司令官は灤東作戦(灤河の東部地域)を発令した。

関東軍は武藤司令官命令により長城を越えて行動しないように自制していたが、中国軍はこれに乗じ、熱河に入り、日本軍の背後を突こうとした。武藤関東軍司令官は灤東作戦を発令し開始された。作戦の目的は満州国の国境としての長城を確実に確保することにあった。

                       

410日 関東軍は長城線を越えて河北省へ侵攻。

関東軍は中国軍を灤河以東から排除し、さらに中国軍を追って灤河を越えて河北省内部へ前進を続けた。

 

418日 日本軍侵攻を停止。

突然、日本軍の侵攻は停止された。それは長城以南への侵攻を憂慮した天皇が、本庄繁侍従武官長(奈良の後任)に、関東軍は華北からまだ撤退しないのかとの下問に始まる。天皇は熱河作戦上必要な場合にのみ一時的に長城を越えることは認めていた。 

本庄繁侍従武官長の日記によれば、この日、天皇から本庄に 「関東軍に対し、其前進を中止せしむべき命令を下しては如何との御下問あり。御主旨は、外国に対し関内に進出せざるべく声明しながら、続々京津(北京・天津)に向かい前進するは信義上宜しからずとせらるるにありと拝せり」と。御前退下後、参謀本部眞崎次長に、「現況と次長等の前に奏上せる所と一致せざる旨を告げ、・・・意嚮を質せし所、次長も大いに恐懼し、直ちに関東軍に凡ゆる方法を採り、更に侵出するとも一旦は長城線に復帰することゝなり、・・・関東軍の長城線への撤退命令となれり」とある。 

眞崎はやむなく、「一旦は」撤兵することにしたのである。翌19日関東軍小磯参謀長から全軍に長城線へ帰還命令が出され、23日までに撤退を完了した。

 

ここでは天皇の意向を関東軍は「一旦は」受け入れている。しかし、

 

5月3日 関内作戦を発令。       

一旦は天皇の意向を受け入れたものの、灤東作戦で灤河西岸に退いた中国軍は日本軍が長城線に戻ると再び灤東地区に兵を進めてきた。日本軍が撤退すれば挑戦行動に出る中国側の態度を放置しては、満州と中国の国境紛争が収まらないと判断した小磯参謀長は、上京して天皇と陸軍中央より、灤東・関内進出の許可を得て、長城を越える関内作戦を発令した。

現地における戦況の帷幄上奏を受け、天皇も承認せざるを得なかったのである。これらのことは作戦上のことにつき内閣は関与していない。

 

57 関東軍は長城を越えて侵攻。

12日には灤東に進出した中国軍を制圧した。さらに中国軍を追撃して灤河を越え、中国軍の根拠地である平津地区へ侵攻した。関内作戦は順調に進められ5月中旬過ぎには、北京郊外数十キロの地点へ迫った。

 

525日 ここに至り中国軍何応欽が停戦を求めた。

関東軍は戦闘行動を停止し、関内作戦は終止した。何応欽は日本の陸軍士官学校を卒業している。

 

531日 日本側の主張をほぼ全面的に容認した塘沽停戦協定が成立。

河北省東部に東西200キロ・南北100キロという、ほぼ九州に匹敵する地域を非武装化し、 満州国の南側国境の安全を確保した。関東軍は長城線へ撤収し、これにより柳条湖事件に始まる満州事変は一応は終わった。

 

 

                塘沽停戦協定交渉

 

 日本の大きな曲がり角となった1933年1月からは、熱河作戦、国際連盟脱退、灤東作戦、関内作戦へと続き、5月に塘沽停戦協定に至った。この頃の天皇について、6月11日の高松宮宣仁親王(天皇の弟)の日記によれば、陛下は「最近数ヶ月で二貫(7.5㎏)近く体重が御減りになった由」としつつも、「いつもより却って御気分さわやかであられる様にお見受けした」としている。事変が終わりホッとされている様子が見える。

 

 

 しかし、6月10日に至り、関東軍は、梅津・何応欽協定を迫り、非武装地帯は河北全省に広がった。これは事実上、国民党政府が華北を放棄したに等しい。同月、河北省の北の内蒙古・察哈爾省でも同様の土肥原・秦徳純協定を結んだ。両協定は華北分離工作の重大な一歩となった。

 

                                   以  上