1.遅れて来た日本が列強に伍して帝国主義国家へと踏み出したのは何時からか?

 

 

        目次  1)列強の日本への接近と国内反応

                 2)明治新政府 初の海外出兵 それは「征台の役」

                 3)明治政府はクーデターで幕府を倒した「武士政権」にほかならない

                 4)日清戦争への道 

                 5)結論 1894年、日本は日清戦争から帝国主義国家として踏み出した。

 

 

1) 列強の日本への接近と国内反応

 

  先ずは歴史を振り返ってみよう。

 

      ① 幕末の列強の動き

           この頃から脅威であり続けたロシアと米国

 

  江戸時代後期に至り、日本の近海へは幕府が認めた貿易相手国以外の外国船出没するようになった。   

 

          *幕府が認めた貿易相手:鎖国中の対外貿易は幕府直轄地の長崎でのオランダ・中国、

                  対馬藩による朝鮮、薩摩藩による琉球、松前藩による蝦夷地のみで

                                    あり、合計4つの窓口は四口と言われた。

 

          1792年 ロシアのラクスマン来航 ロシア最初の遣日使節 和親の申出 

          1804年 ロシアのレザノフ来航  ロシア第2回遣日使節 和親を拒否され帰国 

          1808年 英国軍艦フェートン号が蘭船を装い長崎に侵入 狼藉をはたらいた事件

          1837年 米国商船モリソン号が浦賀にて異国船打払令により砲撃された事件 

          1844年 オランダ国王 德川家慶へ開国を進言 

          1846年 米国東インド艦隊司令官ビットルが浦賀に来航 通商を求める 

          1853年 米国東インド艦隊司令官ペリーが大統領親書を持参し浦賀に来航 

            同 年  ロシアのプチャーチン来航 第3回遣日使節(全権大使)

 

 など、日本へ列強の接近を知らせる警鐘が続いた。露・米の両国はすでにこの頃から日本の脅威と

なっていた。

          1854年  開国 日米・日英和親条約締結

          1855・56年    日露・和親条約締結 

          1858年  米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約締結(安政五カ国条約*) 

          

 

          *和親条約: 鎖国政策を止め、国家間での和親(親睦)を結ぶための条約。領事館を

               設置するなど。

        *修好通商条約:1858年(安政5年)江戸幕府大老井伊直弼が米・蘭・露・英・仏五か国と

               順次修好通商条約を締結した。治外法権や関税自主権の面での不平等条約で

               あった。箱館・兵庫・神奈川・長崎・新潟五港の開港を取り決めた。

                勅許を得ずに調印したので尊王攘夷運動の激化を招き、それに対し井伊

                              直弼は安政の大獄と言われる大弾圧を加えたが、井伊も桜田門外のにて

                              暗殺された。条約の不平等部分の解消には、日露戦争後の1911(明治44

                              年)まで、約50年を要した。 

   

   当時東南アジアで植民地にされていないのはタイ(シャム)だけで、残るは中国、朝鮮、そして極東の島国

 日本のみとなった。東南アジアにおいては、英国はインドからビルマへ、フランスはベトナムからラオス、

 カンボジアへと進出し、シャムは一部の領土は割譲させられたが、西と東からの英仏勢力圏の緩衝地帯

  として独立を維持することができた。列強の次の狙いは中国、朝鮮、そして日本へと向かった。 

 

                         参考:「列強の日本への侵出状況」8 をご覧ください。 

 

 

      ② 速やかな国体の変革が急務であることへの認識

         島津斉彬、吉田松陰”    

    

広く国を挙げて海防問題が議論され、列強のアジア進出に対する警戒感から、大陸及び南方に対する安全保障の思想が育ち、特に1853年の米国ペリーによる開国要求以降は、日本人の「藩」から「国」への意識が高揚していった。

一方で清国は、古来からの夷狄(いてき:自国を天下の中心として、周辺の諸民族を卑しんで呼んだ名称)思想により、阿片戦争でさえも英仏が新来の夷狄に加わった程度の認識であった。

 

明治新政府の人材に大きな影響を与えた海防論を見てみよう。 

 

島津斉彬18091858年)

 日本の存立危機論、対外進出論等が高まる中にあって、具体的に台湾・清国への進出構想を抱いたのは薩摩藩主・島津斉彬であった。斉彬は「台湾・福州を収むるは、日本に外憂を防ぐの第一ならん」とし、英仏を警戒する一方で、大陸の一部、特に福州及び台湾を領有すれば、日本も列強と対等の地位を得るばかりでなく、安全保障上も得策であり、そのためには海軍力を増強すべきと幕府へ主張した。これは後の「脱亜入欧」の先鞭であり、清国に進出していた列強と伍して、その帝国主義に倣うことを意味していた。斉彬が抱いた危機感はその家臣の共有するところとなり、その思想も彼らに受け継がれた。西郷隆盛、大久保利通等多くの薩摩藩士は明治政府の要職に就き、1874年の征台の役に拘り、1895年日清戦争の下関条約における台湾割譲要求にも拘った。  

     

               福州:現福建省の省都。明・清の時代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。

 

吉田松陰18301859年) 

 吉田松陰はぺりー再来航時に、旗艦ポーハタン号に乗船し密航を訴えるが拒否され、国許蟄居となり、長州野山獄に於いて安政元年、「幽囚録」を記した。その中で、北海道の開拓、カムチャッカ・オホーツクを取り、琉球の日本領化、朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。当時の武士階級の意識には、日本はアジア各地を領有すべきというDNAを持っていたものと思われる。松下村塾出身者の多くが明治政府の中心で活躍したため、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きく影響を与えた。この「幽囚録」は、松陰の兵学の師である佐久間象山が閲覧して添削批評を加えた書でもある。

 

 

   島津斉彬    吉田松陰

 

                     参考:「吉田松陰の幽囚録原文」8をご覧ください

             参考:「日本を震撼させた阿片戦争」8をご覧ください 

             参考:「幕末の海外派遣から岩倉使節団まで 先進国文明の急速吸収」8をご覧ください。

 

 

      ③ 地政学的に極めて恵まれた極東の島国日本

         海の隔たりの存在こそが最大の幸運、日本も英国も”

   

現在の米国やロシアを巻き込んだシリアなどの中東での戦闘と自爆テロ、EU全体を混乱に陥れた難民問題、パリ・ベルギーでのテロの多発と混乱など、世界は大きく今揺れている。その点ユーラシア大陸の端の端にある極東の、おまけに島国の日本にはそれらの混乱がまだ及んで来てはいない。日本のこの地政学的位置を秘かにありがたいと実感している日本人は多い。幸運と平和を世界の中で享受している数少ない先進国である。

 

歴史上これまでも、陸続きの国々では民族が混じり合い、民族間のトラブル、宗教間の対立が深まり、次第に武力抗争、戦争へと至って来た。日本にとって最大の幸運は、幕末に列強の植民地となる前に、何とか近代化へと走り始めることが出来たことである。列強にとって、中国・朝鮮が片付いた後の最後の植民地対象であり、太平洋を広く望める絶好の位置にある日本は、少しの距離と海の向こうの島国であったことが災いを防いでくれた。島国という観点からは、欧州にあっても島国の英国は、ヒットラーの侵攻から免れている。海の隔たりが存在することはなんと素晴らしいことか!

 

      ④ 今は3.7キロ先にロシア領

 

 日本は極東にある島国ではあるが、現実にはロシア、朝鮮、中国と国境を接している。まだ近代化途上の明治政府にとって最大の脅威は、ヨーロッパの帝国主義大国ロシアの南進であった。ロシアはバルト海からアラスカまで、ユーラシア大陸北部全域と北アメリカ大陸の一部までを領有する大国であった。さすがのロシアも北アメリカ大陸の植民地化は断念し、アラスカは1867年、米国に売却した。しからば今後の注力は極東だとなった。

  

 

ロシアが1860年に手中に収めた沿海州の「東方を支配する町」と名づけられたウラジオストクから太平洋を望めば、日本そして朝鮮がぐるりとまわりを取り囲んで視界をふさぐ。ロシアのニコライ2世でなくとも、当然のことにまずは陸続きの朝鮮を、そして日本へと食指を伸ばすことは目に見えていた。広大な太平洋を我がものとするためにはそれしかない。

 

 

 

 ロシアのウラジオストクから太平洋を望めば、日本列島がロシアを取り囲み視界を塞いでいる。ロシアにすれば邪魔な列島以外のなにものでもない。朝鮮半島も同様である。

 中国から見ても、朝鮮半島、九州、沖縄諸島、先島諸島、そして日本の植民地であった台湾に、その太平洋への出口を、しっかりと塞がれている。 

 

 

日本にとってロシアの南進は絶えず軍事上の脅威として、江戸時代から延々と100年以上にわたり、常に対ロシア・対ソ連を日本陸軍は最大の脅威とし続けた。なお、1907年からの日露協約締結期間の10年間は除く。

 今現在のロシアの南進はどうか。日本とロシアとの国境は第2次世界大戦で占領されて以来3.7キロ先にある。なんと根室市納沙布岬の3.7キロ先はロシア国境警備員が駐屯する歯舞群島である。そしてロシア人が約7,900人住む国後島までの距離はわずか16キロである。国後島の位置は、北海道東部の角のように張り出した知床岬の先端と、根室市納沙布岬の先端を結ぶラインから大きく日本側へ入り込んだ所にある。この16キロという近さを実感し知っているのは北海道民ぐらいだろう。 

                     

 1945年(昭和20年)、終戦日前の89未明に突如ソ連軍は満州や樺太などで一斉に武力侵攻を開始した。ソ連は参戦後直ちに米ソで北海道を分割占領することを提案したが、ルーズベルト大統領がこれを拒否したおかげで、日本は分割統治という悪夢を経験せずに助かった。ドイツ全体も首都ベルリンも分割占領され、東ヨーロッパはチャーチルが言うがごとく「鉄のカーテンが降りている」と分断された。朝鮮半島もソ連と米国の分割占領が合意され、その後も南北に分裂したまま今日に至っている。日本は沖縄を占領されたが、1972年(昭和47年)に返還された。

  

           参考:「北方4島の面積は」8 をご覧下さい。

 

  

  

2)明治新政府 初の海外出兵 それは「征台の役」

 

       ○琉球の所属を清国と明確にするための征台の役

          “この時、先島諸島(宮古島、石垣島、与那国島ほか)を清へ割譲すると決めていた”

 

征台の役は1874年(明治74月~10月)に行なわれた。琉球は島津と清の両属の関係にあり、1871年の廃藩置県で琉球を鹿児島県の管轄下とした後も、実質的には二股のそれは変わらなかった。1871年、台湾に漂着した琉球の民54名が原住民(生蕃)に殺害された牡丹社事件は、琉球の民が日本人なのか否か、台湾の原住民(生蕃)はどこの国の管轄下にあるのかを明確にする良い機会であった。加えて不平士族の動員などにもその目的はあったが、大国清との開戦に至る可能性のある台湾の領有までは目的としていなかった。清からの回答は、台湾は清の領土であるが蕃民には熟蕃、生蕃の2種類あり、生蕃を化外とし管轄外としたため、牡丹社事件の処理は日本が処置することになった。 

清との戦争を避けつつ出兵し、事件発生地域を制圧した。大久保利通を北京に派遣し交渉をした結果、戦争には至らずに琉球の所属が一応の解決を見た。成立した日清両国互換条款では、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、難民に対する撫恤金(見舞金)を含め50万両支払うとする内容であった。その和解書の文面に「台灣生蕃曾テ日本國ノ屬民等ヲ將テ、妄リニ害ヲ加フルコトヲ爲ス」(台湾の生蕃かつて日本国臣民らに対して妄りに害を加え)という一文が入ったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めたものと解釈し、撤兵に合意した。なお、交渉に当たった大久保は、当初沖縄本島を日本領とし、先島諸島を中国領とする提案をしている。しかしこの提案は合意には至らず、曖昧なまま互換条款の調印となった。そのため琉球の所属が日清間で明確に解決するのは、日清戦争まで待たなければならなかった。この先島諸島割譲提案は、後日の米国グラント大統領の仲介時にも提案されている。

 

征台の役で清国はその国としての弱体ぶりを露呈したので、日本では大陸進出論がにわかに起こってくる。征台の役で征討軍を率いた西郷従道は、帰国後も台湾に拘り続け、日清戦争においても当時海軍大臣であった西郷は台湾領有を指向する。      

 

 

 

 

 

台湾出兵時の日本軍兵士

 

 

 

 

 

 

          参考:「不平士族のはけ口としての征台の役」8 をご覧ください。

                参考:「グラント大統領と琉球所属問題 日本は先島諸島を清へ割譲すると決定して

                          いた」8をご覧ください

 

                                                                      

征台の役は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)以来の海外派兵である。秀吉の海外出兵理由には諸説あり、ポルトガル・イエズス会のルイス・フロイスがその著書「日本史」で、信長の支那征服構想について記しおり、それを秀吉が受け継いだとの見方がある。いずれにしても恩賞を与えるための領土拡張が目的であった。秀吉が「唐入り」と称する征明遠征の決意を諸大名に発表し、明の冊封国李朝朝鮮に対して仮途入明を求めるなどしており、明までの侵攻を意図していたことは間違いない。朝鮮は日本軍に漢城(首都)を占領され、明に援兵要請し、明も参戦した。日本軍はそうそうたる戦国大名達による合わせて16万人もの出兵であった。その後の日本中を巻き込んだ関ヶ原の戦いでさえ東西両軍合わせて15万人(兵員数には諸説ある)であったことを思うと、海外進出意識は大名や武士たちの、自分たちの「存在意義」の思想であったとも言える。秀吉の死によって停戦協定が結ばれ、帰還した。

 

           *冊封国:中国王朝を宗主国とした従属国のこと

           *仮途入明:明への道案内の意味 

 

 

3)明治政府はクーデターで幕府を倒した「武士政権」にほかならない

    武士の潜在意識には常に「自領の保全」と「領地の拡大」志向があった”

 

鎌倉幕府以降、実質の政権を握ったのは幕府・武士であった。武士の思想背景には、現在で言うような平和主義などは微塵もなく、常に意識は「自領の保全」と、機会があれば「領地の拡大」であった。鎌倉時代の第一次・第二次高麗征伐計画*豊臣秀吉による文禄・慶長の役などの朝鮮出兵を見ても、動機はそこにあった。德川260年の平和の時代も武士道は思想の礎として息づいていた。それが欧州列強の東アジアへの侵出という現実により目覚めさせられ、大きな危機感を武士、そして庶民にも抱かせた。

江戸幕府を軍事クーデターで打ち破り、明治政府を作り上げたのは薩摩、長州を主とする武士達で、明治新政府は武士政権であり軍事政権でもある。征韓論は平たく言えば「無礼者!」論から始まったとも言える、武士的発想が根底に存在した。そしてそれが利益線(後述確保へと進んでいくのである。

 

             *鎌倉幕府の第一次・二次高麗征伐計画:元(蒙古)の日本への侵攻である文永の役(1274年)と

                          弘安の役(1281年)の後に、元軍の出先根拠地である高麗を先に制圧すること

             で元の遠征を阻止しようとした計画。実際には実施されることなく終わった。

                          一方、クビライも日本の反撃を警戒し高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍

             の襲来に備えた。

 

 なお、鎌倉幕府以前においても朝鮮半島は現在よりももっと近い存在であったようだ。中国の冊封国であった倭(ヤマト政権)の王・武は、478年中国南北朝時代の宋の順帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする号を受けており、ヤマト政権は日本列島と朝鮮半島南部の支配者として公式に認められていた。これは「宋書倭国伝」に記されている。また、663年には倭国と百済遺民連合軍が唐・新羅連合軍との戦いに敗れ(白村江の戦)、朝鮮半島から撤退している。その後は、遣唐使の時代に移り、貿易と文化交流が中心となっていった。

  

        参考:「日本・朝鮮・琉球の対中国王朝との冊封国・朝貢国としての位置とその歴史」8

           ご覧ください。

 

 

4)日清戦争への道

   なんと開戦時から、北京にて大決戦を行ない雌雄を決するとの作戦であった”

 

      ① 朝鮮半島の位置づけ

        “大陸から日本列島に匕首を突き付けるような位置” 

 

日本にとって、朝鮮半島は大陸から日本列島に匕首を突きつけるような位置にあり、日本の国防上極めて重大な位置にある。従って朝鮮半島には日本と友好的または一体的な独立政権が安定的に存在することに、重大な関心をはらわざるを得なかった。即ち、朝鮮には日本と同様近代化を急ぎ、共同でロシアに対抗できる政権の成立が必要であると思われた。しかし朝鮮は近代化より鎖国を選び、また当時日本よりはるかに大国であった宗主国清は、朝鮮は自国の藩屏(直轄の領地)との認識であり、朝鮮の近代化など考えの外であった。日本にとって朝鮮の近代化にテコ入れするためにも、先ずは清の宗主国としての影響力を排除する必要があった。

 

      ② ドイツを統一したばかりの鉄血宰相ビスマルクの岩倉使節団への影響

        “「大国と対等に交渉するには軍事力」 という体験談”

 

  岩倉使節団は、普仏戦争に勝利し、ドイツを統一したばかりの鉄血宰相ビスマルクとの18733月の会見で、弱肉強食の現代世界では万国公法は頼りにならず、国力、武力を振興して初めて大国と対等の交渉ができるという、体験に基づく話に大きな衝撃を受けた。日本もプロシアが小国からドイツ帝国へと発展してきた道筋を、至急にたどらねばならぬという思いが、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文等の胸中に深く刻み込まれたに違いない。この後、国内の明治六年政変*により大久保は急遽ベルリンから帰国し、木戸はその後のロシア訪問の後帰国、岩倉等本体は9月に帰国した。  

       

        *明治六年政変:征韓論に端を発した187310月の一大政変。参議9名中5名の

                                                                 西郷、板垣、後藤、江藤、副島と軍人・官僚約600人が職を

                                                                 辞した。(参議では木戸、大久保、大隈、大木が残った)

                                                                当時、伊藤博文は工部大輔で、西郷らの辞任後参議に任命され、

                                                    参議兼部卿となった。

  

      ③ ウイーン大学の国家学者シュタインの山縣有朋への影響

         “朝鮮ノ占領是レナリ” 

 

ローレンツ・フォン・シュタインはオーストリア・ウィーン大学の国家学者である。憲法調査の目的でヨーロッパに滞在した伊藤博文が、1882年(明治15年)に約2ヶ月間にわたりシュタインに師事した。伊藤はシュタインに心酔し、彼を明治政府の最高顧問として日本に招聘しようとした。明治1610月、シュタインは在墺日本公使館付として日本政府に雇い入れられた。

 

 1888(明治21年)1月、山縣(内務大臣・陸軍中将)は「軍事意見書」において主権線と利益線という観念を提起している。そこでは朝鮮をめぐる英露両国の極東進出を警戒していた。山縣は、朝鮮はロシアにとってウラジオストクの防衛線、かつ冬季に結氷する同港に代わる進出拠点であり、イギリスにとってはロシアの南下に対する防衛線、かつ香港に代わる侵出拠点という、双方にとって戦略的意義があるとした。 

 

山縣有朋は明治2112月から翌年10月まで、地方制度調査の目的でヨーロッパ諸国を外遊中にシュタインを訪問している。山縣は自らの世界観と国防観につきシュタインに意見を乞うた。シュタインは山縣に、主権の及ぶ国土の範囲を「権勢疆域」、その国土の存亡に関係する外国の状態を「利益疆域」とし、朝鮮を中立に置くことが日本の「利益疆域」となると教えた。朝鮮を直ちに占領する必要はないが、列国に朝鮮を中立国に置くことの承認をとる必要があるとした。ただし、朝鮮の中立を犯す者は日本自らの手により断固排除すべしと主張したのであった。日本の国防における朝鮮の重要性がシュタインにより「利益疆域」という概念で裏付けられたことは、山縣にとって自らの国防観の正当性を確信させるに至った。ここに初めて朝鮮が日本の「利益疆域」として明確に示された。

 

           *主権線:国が規定する国境(領土)

           *利益線:自国の領土の安全に密接な関係のある隣接地域

           *利益疆域:利益領域(利益線)

 

日本における明確な海外への国防戦略のその始まりは、内閣総理大臣に就任(188912月)したばかりの山縣有朋が、1890年(明治23年)3月に記した「外交政略論」にあった。同年11月の第1回帝国議会での施政方針演説でも同趣旨を述べ、それが征韓論を近代化した「主権線」と「利益線」という概念であった。そこで「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と明確に説いたのが始まりである。

 

朝鮮への第三国の勢力拡大が日本の安全保障上の脅威となり、かつ朝鮮に自力で独立を維持する能力がないならば、日本が日本自身のために、朝鮮の独立を維持する必要があった。そのためには、日本は従来の「守勢戦略」(陸軍は国内の治安維持、海軍も沿岸警備程度のものであった)と訣別しなければならなかった。

なお、日清戦争の開戦は4年後の1894年(明治27年7月)のことである。

   

オットー・フォン・ビスマルク と ローレンツ・フォン・シュタイン

   

 

    ④ 朝鮮半島の利益線としての位置づけ

          “主権(日本領)を守るためには利益線・朝鮮半島の確保が必要”

 

1871年(明治4年)にもどる。同年、明治新政府は清国との間に国交樹立の「日清修好条規」を締結した。そして朝鮮に対しても同様の条約締結を求めた。しかし、朝鮮側は日本使節の持参した「国書」が旧慣例と異なるとして、その受け取りを拒否した。日本政府は不満ながらも交渉を続けたが進展はみられず、1872年(明治5)8月外務大丞花房義質を軍艦「春日」に乗船させ朝鮮に派遣。軍事的威圧による事態の打開を図ったが、1873年(明治6年)には征韓論が湧き起こった。

 

征台の役(1874年・明治74月)と並行して、ロシアと交渉していた樺太・千島交換条約が1875年(明治8年)に合意に至り、8月に調印された。これにより解決を迫られていた対外案件の台湾・琉球問題、樺太・千島問題が解決し、残るは朝鮮との条約締結と征韓論への対応となった。

朝鮮とのその後の交渉時に、圧力をかけるため1875年(明治8年)5月、日本は軍艦2隻を釜山に派遣、発砲演習と称した示威活動を行なっていた。征韓論の再度の高まりの後、日本の対朝鮮政策はさらに軍事的威圧により、朝鮮に揺さぶりをかけるものとなっていった。

いかにも明治新政府は武士政権の発想であった。

 

このような背景の下で1875年(明治8年)9月、江華島事件が発生した。日本海軍の軍艦「雲揚」が朝鮮近海水路測量のために、首都漢城(現ソウル)の北西、漢江の河口に位置する江華島付近を航行中、朝鮮軍の砲撃に遭い日本軍が応戦した。

事件後、太政大臣三條實美からの特命全権弁理大臣黒田清隆宛の訓条は、日朝間の条約締結に、もし朝鮮がその対応如何を清国に問うた後に日本の要求を拒否するならば、事件解決のためには朝鮮へ一定の武力行使も止むなし、とする指示を行なった。1876年(明治9年)210日、黒田は艦隊を率いて江華島に上陸、翌11日から日朝交渉は開始された。交渉の結果、226日に「日鮮修好条規」の調印をみた。日本の目的はあくまでも日朝間の近代外交関係樹立にあった。そしてその後日本は朝鮮の近代化を支援していった。

 

なおここでの武力行使は、戦争・占領というレベルではなく、威圧・威嚇の範囲であり、揺さぶりとしての武力行使であった。相手は朝鮮政権であり、戦争にまでに至らなければ、清が介入することはないと判断していた。当時、清はマーガリー事件(英国公使館員殺害事件)により英国と厳しい対立状態にあった。

 

      ⑤ 利益線・朝鮮半島の政情不安

        李氏朝鮮最後の王・高宗をめぐる争い”

 

その後朝鮮では政情不安が続き、政務を司ってきた高宗王の実父大院君を退け、高宗王の妃である閔妃とその一族が実権を握った。

1882年(明治15年)7月、壬午の変が発生した。日本からの勧めに応じて編成された「別技軍」と比較し、従来からの旧軍兵士の待遇は劣悪であった。旧軍兵士の閔政権に対する不満は高まり、役人の不正も発覚、予てから閔政権に不満を抱いていた下層市民が呼応して大暴動へと発展した。この暴動により漢城の日本公使館は焼払われ、日本人軍事教官、日本公使館員らが殺害された。公使花房義質は済物浦を経由して英国船にて長崎に避難した。日本は居留民保護のため出兵した。一方、清は宗主国として反乱鎮圧と日本公使護衛を目的に出兵し、鎮圧活動を行った上で、乱の首謀者と目される大院君を軟禁、政権を閔妃一族に戻し、事変は終息した。

日清両国軍が朝鮮に駐在した。日清間では朝鮮の独立問題、行政改革問題、両軍の撤兵問題を巡り紛糾したが、清は閔妃政権に日本の賠償要求には応じるよう勧告し、日本と朝鮮は同年8月済物浦条約を結び、日本は公使館警備のための駐兵権を得た。しかし以後、朝鮮の内政・外交は清国の手に握られることになった。この事変での日本の賠償要求は日本領事館襲撃への賠償要求のレベルであった。

 

壬午の変における清国の朝鮮への直接介入という現実により、山縣有朋にとって清国の脅威が大きくなった。当時、安南(ベトナム)でも宗主権をめぐり清国とフランスの対立が表面化し、1884年には清仏戦争に至っている。1883年(明治16年)6月山縣は「対清意見書」において、清国を当面の仮想敵国とせざるを得ない旨を上申した。

更に朝鮮半島においては、1884年(明治17年)に発生した甲申の変(開化派による日本の援助を得て守旧派打倒のクーデター)の清国軍による鎮圧、朝鮮における清国代表であった袁世凱の度を過ぎた干渉は国王と閔妃らをロシアに接近させることとなった。ロシアが巨文島の割譲を求めているとの情報や、それに対抗するため英国は1885年に巨文島を占領するなど、朝鮮をめぐる列強の覇権争いが表面化した。もはや朝鮮は日清2国間のみの紛争ではなくなり、日本の望む朝鮮の「完全中立なる独立」は望むすべもなかった。

 

引き続き朝鮮では混乱が続き、民乱も頻発した。そして1894年、遂に日清戦争に至る東学党の乱(甲午農民戦争)が起こった。清は朝鮮政府の依頼により出兵し、日本も公使館警護と在留邦人保護を名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった720日大島駐朝公使は朝鮮政府に、清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)、清国軍の撤退について3日以内に回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐するとの含意があった。朝鮮政府の回答は、改革は自主的に行う、乱が治まったので日清両軍の撤兵、であった。日本側はもはやこれまでとして、723日混成第九旅団が漢城に向かい、朝鮮王宮を攻撃、占領した。日本は国王・高宗を手中にし、大院君による新政権を樹立させた。また新政権に対し牙山の清軍掃討を日本に依頼させた。2日後の25日に豊島沖海戦が、29日に成歓・牙山の戦いが行われた後、81日に日清両国が宣戦布告をした。  

 

   大院君      閔妃

  

    ⑥ 日清開戦時 首都北京地域での「直隷決戦構想」の存在

        首都北京を陥落させることを作戦目標とした”

 

日清戦争(1894年明治277月~1895年明治284月)時には、日本は徴兵制度からすでに20年が経過し、武器の整備や兵の訓練、将校や下士官の養成なども、それなりの経験を積んできた状態であった。

 

1894年(明治27年)65日、参謀本部内に史上初の大本営が設置された。大本営が決定した「作戦ノ大方針」では、朝鮮半島での戦闘に止まらず直隷平野での決戦を行うこととしていたのである。「我軍の目的は主力を渤海湾頭に輸し清国と雌雄を決するに在り」と。即ち、第一期作戦で制海権を獲保した後、第二期作戦で「直隷平野に於て大決戦を遂行す」とした。

 

          *直隷平野:「中華皇帝のひざもと」の地域

 

防衛省防衛研究所ブリーフイング・メモ20156月号『「海洋限定戦争」としてみた日清・日露戦争』には、『陸軍主力を渤海湾岸に海上輸送して北京周辺の直隷平野で決戦を行うことにしていた。その最終目的は、首都を攻略して清国の死命を制することにあった。日本は、日清戦争を「絶対戦争」と位置付けていたのである』と明記している

 

 

       *絶対戦争:敵の軍隊を完全に壊滅させるか、武装解除することにより無力化するまで戦う

              戦争

        限定戦争:限定された政治目的を達成した時点で終わらせる戦争

 

首都攻略の絶対戦争ではあるが、この時点では渤海を取り囲む遼東半島と山東半島、そして天津・北京を占領して植民地化するまでの心算はなく、勝利を確実にし、それを明確にするための軍事上の作戦であった。 しかし、この「作戦ノ大方針」の存在からも、日清戦争は日本の対外進出への大きな転換点であったと言える。

 

少し詳しく日清戦争を見てみよう。

 

 1894年(明治25年)725日豊島沖海戦、81日宣戦布告。

 

当時の戦争指導は政治主導であった。天皇の特旨により、本来の大本営のメンバーではない伊藤博文首相と陸奥宗光外相が大本営会議に列席し、対等に軍事作戦について協議した。

遼東半島先端の旅順口が陥落した翌日の1122日、清国による講和交渉の申し入れが米国経由でなされたが、陸奥外相は日本の勝ち戦に見合った講和条件ではないとし、拒否の返答。陸奥や伊藤首相は、列強の動きを見ながら、講和に踏み切るにはもっと大きな戦勝が必要と考えていた。

 

この時国民に向けて多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞各社は多数の従軍記者を派遣し、速報を競い合った。当時一般家庭で新聞を取るということは少なかったが、戦況への社会的関心の高さは各紙の販売数を急増させ、新聞社の経営規模は飛躍的に拡大した。また徴兵された無名兵士の忠勇美談、英雄化など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、メディアの発達をうながした。一方で清が日本より文化的に遅れているとのメッセージを繰りかえし伝え、日本を開明的な近代国家として礼賛した。国民もそのような対外蔑視の記事を求めていた。

 

伊藤首相は124日、大本営の第二期作戦・冬季直隷決戦案に対して、それは清国政府の崩壊を引き起こし、列強から日本への直接干渉を招くことになるとして、「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」を提案した。直隷決戦を回避し、山東半島先端にある威海衛の清国北洋艦隊を壊滅させ、さらに、征台の役以来、曖昧なままになっている台湾の占領を提言したのである。防衛研究所ブリーフイング・メモ(前出)によれば『伊藤首相の意見が通り、直隷決戦を延期して威海衛を攻略するという「限定戦争」に沿った作戦が決定された。もし、この時に直隷決戦を強行していたならば、戦争を「限定戦争」から再び「絶対戦争」に転換することになる。そうなれば日本は戦争の終結方法を失い、後年のように困難な状況に陥った可能性も否定できない。「限定戦争」の継続を主張したことは、伊藤首相の慧眼であった』と記している。「絶対戦争」の回避を伊藤は首相としてのリーダシップにより成し遂げたのであった。

 

1214日、大本営は威海衛作戦実施を最終決定し、直隷決戦は春期に延期する方針となった。12月末には旅順、大連など遼東半島の大部分を確保し、翌年2月には山東半島威海衛の清国北洋艦隊が降伏して、日清戦争は事実上の決着をみた。

 

大本営は1895(明治28)年2月、北洋艦隊降伏の報を受け、台湾攻略戦の前提として澎湖列島攻略作戦を策定する。講和の正式交渉開始までに台湾占領の既成事実を作っておくことが必要であった。しかし一方で、大本営は3月の直隷決戦準備のための大輸送計画を決定し、講和の交渉が進められるなかで、この輸送は次々に行われ、318日までには本土からの増援部隊は占領中の大連湾に全部が到着した。なお、4月の講和条約締結により直隷決戦は行われることなく日清戦争は終わった。

 

この頃列強はすでに、日本が清国領土の割譲を得れば、以降中国分割競争に参加発展する可能性を認識して、日本への干渉を視野に入れはじめた。

 

戦局が有利になるとしだいに強硬論が頭をもたげる。陸奥外相は朝鮮の「その独立を維持するための遼東半島の割譲」が必要と伊藤首相に書き送っている。また福沢諭吉も「時事新報」(21日)にて「遼東半島も台湾も、さらには山東半島も割譲せよ」と主張している。

下関講和条約では結果として、当初の目的であった朝鮮の独立自主の国であることを認めさせることだけではなく、遼東半島、台湾、膨湖諸島を割譲させた。

 

 

以上のとおり、国も国民も列強の一員となり、外へ向かっての帝国主義国家としての道を歩み始めた。今後日本が清国への分割競争に加わることを、列強各国が憂いていたことは正確な読みであった。

 

 

 

 

天津・北京への入り口である渤海。それを取り囲む北東部の遼東半島と南東部の山東半島。

その先端部に旅順・大連と威海衛がある。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 今回のテーマ「1.日本が列強に伍して帝国主義国家へと踏み出したのは何時からか?」の結論は

 

 5) 結論 

         日本は日清戦争から帝国主義国家として踏み出した。

 

 開戦当初から日本は直隷平野に攻め込む大決戦を計画し、最後には遼東半島も台湾も割譲させようとしたのである。連戦連勝に国も国民も浮かれ、講和交渉に強気になり、それを清が受け入れると、大いに味をしめることになった

 

  

その後の日本は日露戦争へと至る。

 

          列強に伍して帝国主義国家となる国家方針の決定と覚悟 

               ① 国としてはじめて策定した「帝国国防方針」 

 日露戦争後の1907年(明治40年)4元老・山縣有朋の上奏を契機に、はじめて策定した「帝国国防方針」では、「帝国ノ国防ハ攻勢ヲ以テ本領トス」と明記され、建軍当初の守勢戦略から攻勢戦略へと、国として明確に転換した。同時に、再び朝鮮への権勢拡大を狙うロシアを想定敵国第1とし、米、独、仏の諸国がこれに次ぐとした。この国防方針により、以降、満州や韓国に得た利権や東アジアにおいて、日本の国家戦略を侵害しようとする国に対して「攻勢」を取ることを定め、日本本土のみの専守防衛を明確に放棄した。 

 なお、この帝国国防方針は、参謀本部と海軍軍令部の協議で内容を定めて直接上奏し、天皇が裁可したもので、内閣はほとんど作成に関与していない。 

以後、日本は帝国主義路線を本格化させ、大陸への関与を深めていく。  

 

        ② 「二十億の資財と二十余万の死傷を以て獲得したる所の戦利品」 

もう一方でその頃の国民の意識には、1909年(明治42年)の元老・山縣有朋の意見書にある「二十億の資財と二十余万の死傷を以て獲得したる所の戦利品」という言葉が、軍人の、そして国民の胸に深くしみ込んでいった。 

日露戦争後は、獲得した遼東半島の租借権と長春・旅順間の鉄道及びその付属権益などを、どのようにして守るのかという課題に直面する。遼東半島の租借権は1923年に、鉄道の権利は1939年にその期限が切れることになっていたが、多額の借金と死傷者約二十余万人の犠牲を払って得た「利益線」をそのまま手放すということは、帝国主義国家として生き始めた、当時の日本にとってはあり得ない選択であった。

 

 

  日清戦争において、初戦の連戦連勝が講和交渉において清をして弱気にさせ、朝鮮だけではなく遼東半島、台湾を得るという、思いがけずの植民地を得てしまう結果となった。日本はこの戦争で誠に誠に戦争への味を占めてしまったのである。そこからは三国干渉で失ったものを惜しむ気持ち、そして次々と列強のえじきになっていく中国の状況を見て、勝った日本にも権利があるがごとくに考えたのも無理のないことであった。

 

 日清戦争、日露戦争においては、総理大臣と外相の大本営への参加が認められていた。日清戦争時には統帥権の独立と帷幄上奏権*の仕組みがあっても、当時の指導層である政治家も軍部も、同じく統帥権独立の制度を作った当事者達であり、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースでは柔軟に対処できた。また当時の指導者層は、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれたもので、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に、一定の見識をもっていた。

 残念にもその後は大本営への文官の参加例はない。帝国国防方針の策定時にも内閣を関与させていない。しかし、一方で重要な国策は元老を中心とした御前会議で検討、決定されていたのが実態であった。それは明治・大正時代までの元老たちが健在の間で、昭和に入ると参謀本部を中心とする中堅幕僚達による戦争への独走が始まる。永田鉄山や東篠英機などのリーダーたちは、陸軍士官学校、陸軍大学校で軍事専門職としての教育を受けたエリートたちで、実戦指揮の経験がない。彼らは国政を動かし、満蒙領有論から満州事変へ、日中戦争へと落ち込んでいく。

 なお、1937S12)年7月に日中戦争が開始され、政府首脳との意思統一・疎通の場として、大本営政府連絡会議が11月に設置された。 

 

 

                 帷幄上奏権(いあくじょうそうけん): 統帥権(軍隊の最高指揮権)は天皇の大権事項に属し

                           「軍令」と「軍政」に分かれる。軍令(作戦用兵に関する事項)は天皇の

              直属とし、内閣から独立して参謀本部が輔弼した(後には参謀総長・

              軍令部総長が輔弼)。軍政(軍隊の組織編成・人事・予算などの行政事項)は

              一般国務として陸軍大臣・海軍大臣が輔弼した。当初、帷幄上奏が認められて

              いたのは、軍令に関する事項のみで、軍政に関しては陸軍大臣・海軍大臣が

              国務大臣の一員として内閣総理大臣を通じて上奏すべき問題とされていた。

              しかし、陸軍・海軍大臣までもが軍政に関する問題を統帥権の一部と位置づけて

              帷幄上奏をおこない始め、後にその範囲は拡大され続けて行った。

                            帷幄とは帷(垂れ幕)をめぐらせた場所のことで、本営・本陣を意味する

 

  

                                                               以   上