5、大政奉還、王政復古の大号令、五か条の御誓文へ
坂本竜馬がまとめた国家構想に船中八策がある。慶応3年(1867年)6月、坂本が後藤象二郎に提示したもので、大政奉還、上下両院の設置による議会政治、有能な人材の政治への登用、不平等条約の改定、憲法制定、海軍力の増強、御親兵の設置、金銀の交換レートの変更などで、中央集権的な統一国家を構想するものであった。当時既に、朝廷への統治権返上や議会政治などは、広く横議されていた構想であり、これらが10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令への下地となっている。
○大政奉還 慶喜は徳川の延命を図ろうとした
1867年(慶応3年)10月13日
討幕の密勅(岩倉具視が作った偽勅とする説もある)が薩摩藩、14日には長州藩に
下された。薩長は挙兵できる体制が整っていた。
一方で同日、慶喜は諸藩に大政奉還を通達した。
この日、慶喜の大政奉還がなされ、間一髪のタイミングで討幕の密勅は凍結された。慶喜は大政奉還により事態をいったん収め、新政府に於いての徳川家の存続を図ろうとした。朝廷は政権を運営する能力も体制もなかったため、慶喜による大政奉還が行われても将軍職辞職はなされず、幕府に変わる新政府も新設されず、その結果慶喜が政務を担当し、幕府存続派が大政再委任を要求するまでに巻き返して、政局は混乱を極めた。
10月14日の長州藩への討幕の密勅は薩摩藩の朝廷工作によるものであったが、長州が朝廷から正式に朝敵を赦免されるのは12月8日である。従って、長州は参与会議、四候会議に参加してはいない。
○倒幕派による王政復古の大号令
大号令には「王政復古」とともに、広く献言の道を開き、貴賤にかかわらず人材を登用する
と明記された。
1867年12月9日(慶応3年)、この混乱を極める現状打開のため、岩倉具視、大久保利通らは討幕派の公家と、薩摩・土佐・尾張・越前・芸州5藩を集め王政復古のクーデターを断行した。5藩の兵が御所の城門を封鎖、御所は討幕派の手に落ちた。岩倉具視が「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を宣言した。また、徳川への辞官納地(官位を辞し領地を朝廷に返上する)が決定された。
大号令では、旧来の朝廷での摂政・関白体制を廃止し、幕府という制度自体をも廃止した。代わって新政府には総裁・議定・参与の三職が設置された。
さらに、新政府の施政には「縉紳(公家)武弁(武家)堂上地下(身分の上下)之無別至当之公議(議論)ヲ竭(尽く)シ」とある。新政府では公家も武家もその身分の上下にかかわりなく「公議」が行なわれると明記して、今後始まる国政変革の方向を示した。なお、「堂上地下」の地下の範囲を公家及び武家だけではなく庶民にまでに拡大解釈する説もあるが、そこまでの拡大解釈は五か条の御誓文を待つことになる。
大号令では、「𦾔弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事」ともある。「旧弊御一洗につき議論の道開放せられ候間、見込ある向きは貴賎に拘かかわらず忌憚なく献言すること可。かつ、人材登庸が第一の急務に候故心当りの仁これ有れば早々に言上すること可」と、新政府において横議・献言と人材登用が急務と記されている。
辞官納地に大阪城の旧幕府側は憤激し、京都奪還の軍を出す勢力が主流となり、慶喜はこれを押さえられず大阪から京都へ出兵し鳥羽伏見の戦いとなった。
なお長州藩は、慶応3年12月8日の朝議にて朝敵を赦免されたばかりで、王政復古の断行(翌9日)には参加できていないが、鳥羽伏見の戦いには出兵している。この時山縣有朋29歳、伊藤博文26歳であった。
○戊辰戦争の始まり 慶応4 年(1868年) 1月~明治2 年5月
1868年(慶応4年)1月3日、旧幕府軍は薩摩藩を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見の戦いとなった。この時、新政府軍が天皇から賜ったとされる3本の錦の御旗は影響力が絶大であった。朝廷の軍であることの御旗であり、敵対する者は賊軍とみなされた。慶喜は江戸へ開陽丸に乗って敗走した。
1868年2月9日、新政府は有栖川宮熾仁親王*を東征大総督に任じて、旧幕府追討の軍を起こした。薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道、東山道、北陸道の三方に分かれて進発した。鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争へと拡大された。
*有栖川宮熾仁親王:孝明天皇の妹-和宮の婚約者は有栖川宮熾仁親王であった。
にもかかわらず婚約を破棄され、和宮は14代将軍家茂へ降嫁
した。親王には、過っての婚約者の嫁ぎ先を攻撃する責任者
という役割を与えられた。
○天皇による五か条の御誓文
天皇の御誓文には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と明記した。
地歩を固めた新政府は3月の五か条の御誓文へと至る。王政復古の大号令から3カ月後である。
江戸城総攻予定日前日の3月14日(1868年・慶応4年)に、天皇が天地神明に誓約する形式で五か条の御誓文が布告された。それは新政府の基本方針を示したもので、「公論」に基づく国家建設が宣言された。
五ヶ条ノ御誓文
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
(広く会議を興し、万機(政治は)公論に(公平な議論により)決すべし)
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
(上下心を一にして、さかんに経綸(国を治める)を行うべし)
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざら
しめんことを要す)
一 舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ
(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし)
我國未曾有ノ変革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保仝ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
(我が国未曾有の変革を為さんとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大いにこの国是
を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ)
以上は国是として定められたのである。
新政府が擁した天皇に「恭順」した諸藩の協力を得ての明治維新であり、彼らの支持を維持するため、新政府は五箇条の御誓文に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」として公論を前面に押し出している。
しかし、公論(公平な議論)に参加する対象者の範囲はどの程度までであるのか解釈は曖昧であった。
当初案では、「列侯会議を興し万機公論に決すべし」であったが、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に修正し結論とした。木戸孝允は新政府への支持を広く結集するため、わざと表現を曖昧にし、より広い範囲から意見を取り込もうとしたと言われている。
この修正により「広く会議を興し万機公論に決すべし」は身分に関係なく議論することと解され、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠とされた。また明治政府自身もそのように解釈するようになっていった。
慶応4年9月8日(1868年)に明治へ改元し、1月1日へさかのぼって適用とした。
4月11日、江戸城無血開城がなされた。奥羽諸藩は5月、奥羽越列藩同盟を結成し、官軍と対決した。優秀な装備をもつ薩長を中心とする新政府軍はまず北越を平定し、次いで9月22日に 会津藩を降伏させた。政府軍は翌1869年(明治2年)、箱館に進撃し5月 18日に五稜郭は開城され、約1年半にわたる戊辰戦争は終わった。
明治天皇による五か条の御誓文