2、維新への激動が始まった
○当時の幕府と朝廷との関係
徳川家康が定めた「禁中並公家諸法度」により朝廷は政治に関与できなかった。また、天皇は御所から出ることも禁じられ、外出するには幕府の許可が必要となっていた。しかし朝廷権威の復権に光格天皇*は動いた。1808年 (文化5年)、光格天皇が国策については朝廷に報告するよう要求したが、幕府は外交問題について報告すればよいとしていた。1811年のゴローニン事件*の際には、幕府は光格天皇の要求に応じて交渉経過を報告している。
*光格天皇(119代・在位1779~1817)→仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇
*ゴローニン事件:ロシアの軍艦ディアナ号が千島列島を測量中、艦長のゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、1811年(文化8年)から約2年3か月間、日本に抑留された事件。
○ペリー来航により流れは大きく動きだした
幕府の、朝廷への奏上、建言の奨励による処士横議の新潮流、門閥を越えた人材の登用、が動き出した。
ペリーは大統領国書を徳川将軍に手渡そうと江戸湾入口の浦賀へと来航した。アメリカは日本の統治者は徳川将軍であって、京都の天皇とは認識していなかった。これは他の列強も同様であった。ペリーが持参した国書では、徳川将軍に対して「Your Imperial Majesty(皇帝陛下)」「the Emperor of Japan(日本皇帝)」「Empire of Japan(日本帝国)」の文言を使っている。
ペリーの開国要求に直面して老中首座阿部正弘は、1853年(嘉永6年)7月、「国家の一大事」として朝廷に奏上するとともに、諸大名に意見や提言を求めた。さらに良い提言であれば、余すところなく提出を求め、これにより藩士、町人に至るまでの提言が行なわれた。これは日本中を沸き立たせた。以降、「草莽の処士横議」とされる幕政への議論、建言の道が開かれ、言論の大きな流れとなった(言路洞開)。幕府において無役の勝海舟の海防意見書が評価され、幕府中枢へと入っていく足掛かりとなった。同時に各藩においても処士横議は、家格による門閥の仕組みを崩壊させ、優秀者を抜擢することが始まった。また、坂本龍馬のような脱藩者も活躍できる世相になっていった。
これらのことは幕府の権威を弱める一方で、雄藩の発言力の拡大、結果として朝廷の権威の強化につながった。この時、幕府に意見を徴された大名たち54藩のうち、攘夷が8、開国が14、後は幕府の決定に従う、であった。
日米和親条約は1854年3月に調印。同様の条約が英、露、蘭、その他の列強と締結され、「鎖国」時代は終わった。ここが大きな転換点となり、開国、明治維新へと動き出した。
○処士横議を可能にした当時の日本文化と情報水準
多くの人達による「処士横議」を可能にするには、横議をするだけの文化と知識がなければならない。
幕末期には、わが国の文化と情報水準が、様々な階層において、それが可能な水準に達していた。それはどの程度であったのか?
江戸時代にはかなり広範な識字人口が存在していたことは知られている。武家は、支配者、指導者として文武の教養をつむべきものとされ、そのために設けられた教育機関が「藩校」である。幕末維新期には全国の藩校数は約270校に達していた。また、藩内の主要な町などにも郷学を設け、ここでもその地方に居住する武士の子弟の教育を行なっていた。幕府は、江戸にさまざまな目的をもつ学校を開設し、そのうち最も重要な地位を占めていたのは昌平坂学問所(昌平黌)であった。
幕末には昌平黌では朱子学中心から洋学をはじめとする多様な学問へ転換し、現実的、国際的な思考を学んでいた 。藩校の優秀者は昌平黌へ送られ、ここで共に学んだ俊才たちにより知的ネットワークが形成され、これにより全国規模の「処士横議」が進み、藩にとらわれないナショナリズムが育っていった。同様のことは、1855年(安政2年)に幕府により開設された海軍伝習所でも起きている。22名のオランダ軍人教官と幕臣70名、諸藩から129名が参加していた。約4年間ではあったが、ここでも藩を越えて世界の中の日本としての一体感を実感していたものと思われる。勝海舟、榎本武揚、五代友厚たちが参加をしていた。
これらの学校のほかに学者が開設した私塾(家塾)があり、幕末にはここに学ぶものも多くなった。良く知られているのは、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、松下村塾(長州・吉田松陰)、適塾(大阪・緒方洪庵)などがある。
庶民の学習機関として自然発生的に出現したのが寺子屋である。寺子屋は都市部のみならず、農村部でもかなりの普及が見られた。維新後の明治16 年に江戸期の寺子屋の数を調査している。資料的な正確さには難点があるが、体系的な寺子屋一覧表としては唯一の資料となっている。そこでは全国で15,560 校*の寺子屋の存在を確認している。
さらに江戸時代には、一定数の識字層、大衆的読書層の存在を前提とした出版文化の隆盛が出現している。家庭生活のための百科事典とも言うべき「重宝記」の刊行。草双紙、仮名草紙など通俗的・娯楽的な読本の普及。貝原益軒「養生訓」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」などのベストセラーが出現し、それらを愛読したのは庶民であった。新聞の元祖とも言える「かわらばん」も盛んに発行されていた。
以上のような状況を受けて、黒船来航の話題は江戸へ瞬時に伝わり、その空砲に江戸は大混乱になった。しかし、それが空砲だと知れると、以降はそれを花火がわりに庶民は楽しんでいた。狂歌にまで歌われ、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」と騒ぎをはやしたてている。
*現在の小学校の数:少子化により減り続けているが、文科省の直近のデータによると20,095校である。
ペルリ像 旗艦サスケハナ 長崎海軍伝習所