1、維新への予兆
〇阿片戦争は日本を震撼させ、維新の発火点となった
日本は鎖国により孤立した安眠が200年余り続いていた。当然、誰もが攘夷思想であった。
英国東インド会社は植民地インドで阿片を生産し、英国人商人により中国へ密輸させていた。清は欽差大臣に林則徐を任命し、密輸商人の追放、大量の阿片を破棄した。これに対し英国では、阿片の輸出は人道上問題とし軍隊の派遣に反対論が広がっていたが、議会では賛成271、反対262の僅差9票で承認され、阿片戦争が開始された。依然として、英国が海賊国家と言われてきた証でもある。当時は阿片を商品として売り込み、戦争をしてまでもそれを維持しようとする植民地政策がまかり通っていたことに、驚きを禁じ得ない。人種差別の原点である。
阿片戦争(1840~42年)での清朝の敗北はいち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃を与えた。中国は文明国であり大国であるとの認識が日本にはあったが、この戦争で中国の弱体化と列強の植民地獲得戦争に、日本は驚きと恐れを実感した。さらに、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となっていたことにも驚かされた。
それらの衝撃は、日本人の目を鎖国から一挙に世界に拡大させた。西洋諸国は現在どのような発展状況にあり、世界のどこに進出しようとしているのか、その軍事力と国力はどの程度のものか、そして速やかな国体の変革が急務であることを日本中に知らせしめた。
それらの情報を得るために、大きな影響を与えた本がある。中国の「海国図志(かいこくずし」である。同書は、阿片戦争敗戦により欽差大臣を罷免された林則徐の依頼もあって、魏源が編纂に着手し、1842年~1852年にかけて刊行された。魏源はアヘン戦争後の民族的危機を鋭く意識して、富国強兵のための近代的軍備の創設、殖産興業の必要などを説いている。林則徐や魏源の抱いた西洋列強への危惧は、当時の中国国内では重要視されなかったが、同書は日本でも刊刻され、佐久間象山や吉田松陰、横井小楠らによって読まれ、速やかな体制転換の必要性が日本に広まっていくことになる。なお、日本でも警告の書が出され、斉藤竹堂による「鴉片(阿片)始末」が知られている。幕府はオランダからの定期的情報「オランダ風説書(阿蘭陀風説書)*」により阿片戦争の情報を得ていた。
一方の清朝国内では「香港島を与えておけば英夷も満足するであろう」との慢心が根強く、魏源が訴えた改革の必要性が国内に強く認識されることはついになかった。中国においては処士横議へ至る文化的素地がなかったことを示している。
*オランダ風説書:幕府は鎖国中でも海外情報の入手は必要であり、オランダに対し情報の定期的提供を求め、1641年から始まったのが「オランダ風説書*(阿蘭陀風説書)」である。オランダ商館長がオランダ貿易船が長崎に入港する毎に情報をまとめた海外事情の報告書である。それにより阿片戦争(1840~1842年)や1年前の1852年にペリー来航の情報を得ている。
林則徐 魏源 南京条約締結
*文政十亥年風説書 (1827年)
一、当年来日のオランダ船二艘6月8日バタビアを同時に出帆し、海上以上無く本日一艘長崎に到着した。 後船は当初8日程一緒で其後見失なったが、 間もなく到着する事と思われる。この二艘以外に仲間船は
ない。
一、昨年長崎から帰帆した船二艘は12月24日海上異常なくバタビアに到着した。
一、東インド付近は静かであるがヨーロッパの諸国の フランス、イギリス、スペインの間で戦争が起るという情報もあるが今のところ明確でない。
一、暹羅(タイ)王が交易の為バタビアに使いをよこす。
一、ペルシャ国よりロシア国に攻込んだがロシアが大勝利を得てペルシャ軍は敗走した。
一、トルコ国の都府コンスタンチノープルで軍隊内で反乱があったが、速やかに国王が鎮定した。
一、今回航海中中国船は見掛けなかった。
以上の外変った情報はない。
商館長ヘルマン フェリックス メイラン