4、激動期Ⅱ 倒幕へ、王政復古へ

 

   公武合体から倒幕へ。倒幕のため諸藩の協力を得るには尊王、王政復古の旗印が必要であった。

 

○薩長連合の密約成立 

   薩英戦争(1963年7月)、下関戦争(19648月)の完敗により両藩は、先ずは開国・富国強兵しかないとの結論に達し、それは現体制では不可能だと実感した。両藩は攘夷を捨て、改革派が実権を握った。薩摩は雄藩否定の幕府を倒したい、長州は第二次長州征伐への備えのための支援と武器がほしい、そこで、坂本龍馬の仲介により敵対する薩長2つの藩は近づいた。遂に1866年(慶応2年)1月、長州再征に対しては長州を支援する、さらに(長州が朝敵)赦免後は両藩が一致して皇国のために(討幕と新体制確立へ)全力を尽くすとする薩長同盟の密約が、小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝允(桂小五郎)、坂本龍馬により成立した。この密約に基づいて薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否した。  

 

 薩長は密貿易の収入により、戊辰戦争までには、最新の小銃を大量に購入した。

 

 第2次長州征伐は1866年(慶応2年)6月から開戦となったが、諸藩は開戦に消極的で、他方薩摩藩の後援を得た長州藩の士気は高く、幕府軍は敗戦を重ねた。7月、将軍家茂の死去(21歳)を理由に征長を中止した。幕府の権威は大きく失墜した。 

 

  12月5日、慶喜が15代将軍に就任。同25日、孝明天皇が急死し、翌慶応319日に明治天皇は14歳で践祚して皇位を継承、第122代天皇となった。 

  

○倒幕への動きは本格化した 

 京都の岩倉具視の王政復古論が、万延・文久年間(18601864年)から大きな影響力をもつようになっていた。元治、慶応へと続く。 

 一方で、1866年(慶応2年)、薩長両藩による倒幕の密約に加え、国内の統一を優先し富国強兵による新政府を志向する勢力が台頭、西の諸藩が結集した。 

 

 そこに王政復古論が結合して1867年(慶応3年)には歴史の大転換が起こる。

 

 

 

 

 

岩倉具視