「処士横議の潮流」が明治維新を生み出した。ペリー来航から明治元年までの激動の15年間。その激動を動かしたもの、それは「処士横議」の潮流であった。
はじめに
中国をはじめアジア諸国が成し得なかった早期近代化に成功した日本。鎖国から開国へ、朝廷と幕府、地方における各藩の自治、それらをまとめ上げて一気に明治政府という中央集権国家を作り上げた日本。その原動力は何だったのか。様々にそれらは有る。しかし、それらの根底には「処士横議*」の活発な議論の展開があったからだ。
処士横議の潮流により優秀な人材が発掘され、門閥にとらわれない人材登用が起こった。それを受け継いだ明治新政府は「横議・献言」と「人材活用」の流れをさらに活かすために、基本の方針として、それを王政復古の大号令や五か条の御誓文に明記した。
*処士横議:藩や幕府に発言の機会のなかった者たちが国事を議論、建言をする
こと。彼らは自らを「草莽(在野)の処士」と称した。
この2つの流れを、私にとって明確な存在とするために、当時の状況を調べてみた。
・「処士横議」による言論の大きな流れの誕生とその背景
・天皇による五か条の御誓文にある「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」という基本方針への流れとその背景
[目 次]
1.維新への予兆
〇阿片戦争は日本を震撼させ、維新の発火点になった
2.維新への激動が始まった
○当時の幕府と朝廷との関係
○ペリー来航により流れは大きく動きだした
○処士横議を可能にした当時の日本文化と情報水準
3.激動期1 攘夷から尊王攘夷へ
○「攘夷」から「尊王攘夷」へ
○日米修好通商条約調印をめぐる争い
○海外知識吸収のための欧米派遣は1860年から始まった
○公武合体派による皇女和宮の降嫁
○薩摩藩(公武合体派)影響下の朝廷の動き
○過激派長州らによる京都騒乱
○攘夷決行の勅令
○文久三年八月十八日(1863年)の政変
○雄藩大名の朝議参預就任と幕政への参加
〇長州、禁門の変を起こすが敗北
4.激動期Ⅱ 倒幕へ、王政復古へ
○薩長連合の密約成立
○倒幕への動きは本格化した
5.大政奉還、王政復古の大号令、五か条の御誓文へ
○大政奉還 慶喜は徳川の延命を図ろうとした
○討幕派による王政復古の大号令
○戊辰戦争の始まり
○天皇による五か条の御誓文
6.明治政府の成立
○廃藩置県の実現
○英傑たちのその後